〔渓声ー4〕時代を超えるもの人は如何にして時代を超えられるか
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第一節 「テスト氏」管 見 見出しに戻る
私の書斎に、『テスト氏』初版本がある。 小林秀雄の「秀」の押印のある1934年に野田書房が出版したものだ。 1934年といえば、日本はその前に国際連盟を脱退し、この年にソヴィエト連邦は国際連盟に加入、ルイセンコ学説発表、 中国共産党の大西遷(長征)などがあった、そんな年である。
その年から40年前の1893年、 ヴァレリイは「<思想がただ存在することだけに興じる>生の至上の瞬間を思い起こしている」のだ。 ヴァレリイは「こうした瞬間を1893年10月に知ったといっている。つまり、1893年10月という時期には、ヴァレリイは、 ラザロのごとく、死んでいなければならなかったのだ」とは、アルベル・チボーでの言葉である。
「私は何事においても、とテストは言う。それを究め、それを遂行するのが容易か困難か、ということしか重視しない。 とういに知り尽くしているものなぞ、私にはどうでもいいのだ」
チボーデは、テストについて次のように語る。
「レオナルドやテストという名に託して、ヴァレリイが、彼自身の、極値の姿に、溌剌とした力を賦与している思想」と。
「ヴァレリイの思想がその生命を得るのは、事物の関係というよりむしろ、関係の世界においてである」とも。
「テスト氏は一種の極値を表象するもの」(以下チボーデの文引用)
「−−しかし、自己を表現しなかった天才を、どうして天才と知ることが出来よう。−−テスト氏は不動のままで話をする。 それは<彼が操り人形を殺してしまった>からだ。 がだライプニッツは言っている、われわれは行為の4分の3において自動人形だと。 テスト氏は、だから、この4分の3を抹殺してしまっているのである。 本当の天才とは、天才であると証明できるような天才である。 この証明こそ創造行為である。 そして創造は自動性を条件としている。 テストはき結局、ただ一つの次元からだけなる存在、抽象物である」
「ヴァレリイが究極に目指すのは、真に理想的な<方法序説>であるが、この<序説>は今までのところ、未だ断片でしかない」
最後にチボーデは、こうも述べる。 「マラルメの詩と、ヴァレリイのそれは、尖塔の末端の眼に見えないほどの高みにある。、あの頂石の位置が指しあてられるのである」 と1923年、ヴァレリイ研究の古典となっている書で述べている。
1934年(昭和9年)10月刊の翻訳・小林秀雄、意匠・青山二郎の『テスト氏』。 この本の序は「この架空の人物は、私が、半ば文人、半ば野人。 或は一口に内的なといってもいい一青年期に際して 、書き上げたものである」で始まるーー。
ヴァレリイは書く。 「テストは、私が自分の意思に酔い痴れていた一時期、奇怪な自意識過剰の間を潜り、産みみ出されたのであった。 私は正確という急性の病気に感染していた。了解したいという狂気じみた欲望の限界を目がけていた。―― 私は文学を信用していなかった。詩となると随分正確な作業だが、これにも信をおかなかった。 書くという行為は、常に<或る知性の犠牲>を要求する。―― 」
「私は、ただ文学のみならず、殆んどすべての哲学も、私の衷心から嫌いな曖昧な事物、不純な事物の裡に、 叩き込んでしまったのである」
「ーーそこで私は、自分が現に本当に所有しているもの以外、一切捨てようと思った。が、どう捨てたものかとなると、 あまり自信がなかった。自分を嫌悪するに必要なものなら、自分の裡を探れば、いくらでも苦もなく出て来る始末であった。 しかし、一方私は自分の、正確に対する無障碍な欲望、信念と偶像とに対する軽侮、容易に対する嫌悪、己の極限 を嗅ぎつける感覚力には充分恃むところがあったのだ。私は自分の裡に、一つの内部の島を拵えあげ、これを認識し、 これを強固にするため、徒な時を過ごした。−− テスト氏は、こういう状態の生々しい思い出から、或る日生まれ出たのである」
そして 「何故にテスト氏は存在することが出来ないのか―この疑問こそ彼の魂(いのち)である。 この疑問が諸君をテスト氏にしてしまうのだ。何故かというと、彼こそ<可能性の魔>自身」に他ならぬ殻である」
さて、この作品『テスト氏との一夜』に登場する「私」が語る次の言葉に、遠い日の自分の傍線が引いてある。
「私だって、自分の精神の華々しい諸瞬間の報告書を作り、これらの瞬間瞬間(ときどき)が、溶けて一丸となって、 幸福な一生涯を組み立てている所を、想像してみる位は出来るかも知れぬーー」
<己の魂の来歴>を思う。 恐らく「魂」という言葉にヴァレリは、最も嫌悪する曖昧さの極限を見たのかもしれないがー。 ともかく、何事であれ、書くという行為によって、感動したものを、時を隔てて、もう一回見るということ、そこに、 これまでにないものを感じとる世界あると感じているのだ。 そのことが、ここのところ私を深く捉えて、ものを書かせたりしているようだーー。
思想を最も正確に認識する者は、無名の人々であり、自己を主張せず死んだ人々」だと思っているのである。
その彼は、1893年10月のこと、テスト氏と知り合うことになっている。 「年はさあ、40くらいだろう。恐ろしく早口で、声は鈍い。すべてのものが定かでない、眼にしたところが手にしたところが。 彼の色々な言動は、私に判断できた限り、或る比類のない知的体操とでもいう様なものを創造させたのである。 だがこれは、彼にしてみれば、何も有り余る才能というものではなく、訓練され次第にたたき上げられた才能であった」
このテスト氏本人の言葉はこうだ。 「本を読まなくなってから二十年になる。自分で書いたものを焼いてしまった。生身を削るのが私の仕事さーー 私はほしいと思うところを保留する.だがそれはまだまだ易しい事だ。明日欲しいと思うだろうというところを保留する、 これが容易じゃない。−−−言わば機械的な篩いを探して来たのさーーー」 テスト氏が「口を開くや、聞き手は忽ち彼の想念の裡にあり、己と事物とのケジメがつかなくなる様な気持ちになる。 家々とか、空間とかの様々な拡がりとか、町のあすこの隅ここの隅、街頭に揺れ動く彩色、そういうものの前に 逡巡するかと思えば巻き込まれるような気持ちになってしまう」という。
「ともかく彼の話から追放される言葉の数は余程なものであるという事は確かであった」のである。 テスト氏は呟いた。 「他人というものがあればこそ、人間は美しくもあるし、非凡でもある。つまり皆他人の食いものになっているんだ」
彼は猶い続けた。 「俺は考える、考えるが何の邪魔もしない。たった一人だ。孤独というものはいかにも気持ちのいいものだ。 荷になる優しさも何処にもないーー同じ夢路、こうしていようが、船の船室にいようが、キャフェ・ランベェルにいようが 同じ夢路だーーー −−−俺はこうしている、自分を眺めながら、自分を眺めるのをのを眺めながら、ーーー −−−眠りはどんな想念でも続けるしーーーー」
こうして、 「彼は静かに鼾をかいた。私はもう少し静かに蝋燭を取り、足音を忍ばせ外に出た。」 『テスト氏』を訳した後の昭和14年12月、小林秀雄は「ヴァレリイ」について書いている。 「ヴァレリイはテスト氏を<悟性神話上の怪物>と言ったが、恐らく彼の真意ではない。テスト氏には、肉体もあり、 意思もある。いやテスト氏をテスト氏たらしめる人間的条件は、何一つ彼に欠いてはいない。(中略) <人間>がそのまま純化して<精神>となる事は何の不思議なものがあろうか、 人間が何物かを失い<物質>に化する事に比べれば。 (中略) 僕は繰り返す。何処にも不思議なものはない。誰も自分のテスト氏をもっているのだ。 だが、疑う力が、唯疑一のへないものという処まで、精神jの力を行使する人が稀なだけだ。 又、そこに、自由を見、信念を掴むという処まで、自分の裡に深く降りてみる人が稀ながけである。 欠いているものは、いつも意思だ。」
ここから、いま私たちは一体何を感じとるのか。 時代もあろう。 ヨーロッパ哲学の変遷から見る視座もあろう。 歴史的にかすむ思想風土の様子への思いもあろう。 デカルトから発した近代化思潮の厄介なドラマからどのように見えるかもあろう。 また、私たちの見る眼には、そこにはすでに、あまりにも意思の衰退があるかも知れない。 ともあれ、それは、人それぞれでよかろう。 ichikawa
私は、同じように、ピック・アップした引用の導きにより、続いて記してみたいと思う。 氏は1959年に「F・A・S協会」を発足させた
1959年(昭和34年)といえば、国際的にはジュネーブ4国外相会議、キューバ革命、フランス連合をフランス共同体に改編した フランス第五共和制に伴うド・ゴール大統領就任、ソ連の宇宙ステーションが月の裏側の写真撮影成功などがあった。 また、国内的には、岩戸景気、伊勢湾台風、皇太子の結婚式、その翌年からカラーテレビの本格放送となる、そんな年だ。
ところで、久松真一は「覚の哲学者」といわれる存在であった。生涯にわたり茶道を行ずる禅者であった。 氏は、F・A・S協会の設立二年前、アメリカ、ヨーロッパ、インドを周っている。 そして F・A・S・協会発足の二年後、1961年には次のように書いている。 「−−無相の自己の自覚から全人類の立場、及び歴史創造の問題は如何に把握しうるのか、 自己(F)と世界(A)及び歴史(S)は如何にかかわるかは、当然取り組まねばならぬ問題として予期されていたわけであります。 その後、世界の歴史はいよいよ激動を加え、人類社会はその内面的な危機の容易ならぬことを次第に露呈してきました。 この時にあたり、私どもは近代的原理の限界を明確に自覚し、過去現在未来に通ずる根源的立場より、全く新しい世界を 構想し、その建設の方途を探求すべき使命と必要を強く感ずるのであります」 と述べている。
ちなみに、1961年は、池田首相の国民倍増計画、農業基本法の制定、米国ではケネディ大統領就任、ソ連の人間衛星船・ 第1号成功といった、あのころだ。 久松真一はこの協会のF・A・Sについて 「Fとは、Formkless self すなわち形なき自己の頭文字であり、Aとは、Allmankind すなわち全人類の、Sとは、Superhistorical history すなわち歴史を超えた歴史の、それぞれ頭文字であります。 (中略) 形なき自己ということが人間の深さの問題を表すとすれば、次の全人類の立場は、人間の広さの次元にかかわるものであります。 ーーー全人類の立場の立場に立って働くということは、単に個人を超えた世界の立場に立つということのみではなく、同時に歴史の場 に躍り出て歴史をを形成し、創造するということであります。 (中略) ところで、これら、F(形なき9自己)、A(全人類)、S(歴史を超えた歴史)の三つのうち最も基本となりますのは、Fであると思うのであ ります。 (中略) 私どもはこの人間性の立場に立って、その必然的な構造の上に、どうしてもFが、AとSというはっきりした二つのディメンション(次元) をもって来なければならないと考えます。 (中略) 例えば宗教でありますと、どうかするとFだけに止まってしまうことになる。社会運動になるとAの拡がりだけになって、Fを全く度外視し てしまうことになる。また歴史を考える場合にも、しばしばFが度外視される。 (中略) ですから、FASのどれをも欠くことが出来ないという、そういう在り方の修行なり論究が出てこなければならない。 私はFの修行は、ASをふくんだ修行でなければならないと思う。 (中略) 本当の社会運動、歴史運動はFを閑却したものであってはならないわけであります」 と、このように述べられている。
私たちは よくおちついて 本当の自己にめざめ われみ深い心をもった人間となり 各自の使命に従って そのもちまえを生かし 個人や社会の悩みとそのみなもとを探り 歴史の進むべき ただしい方向を見きわめ
人類国家貧富の別なく みな同胞として手をとりあい 誓って人類解放の 悲願を成し遂げ 真実にして幸福な 世界を建設しましょう
この「人類の誓」は、FASの理念を実践しようという協会の相互約束の証しになるように、との願いを込めて、久松真一氏が 提唱したものだ。
氏は語る。 「ーーこの『人類の誓い』というものの根本となりますのは、はじめの二句で、 <私たちはよくおちついて本当の自己にめざめ、あわれみ深いこころをもった人間となり>ということに尽きるわけであります。 (中略) とかく落ち着かないということは、そわそわして、しっかりと自分というものがそこに立っていないということになる。 落ち着くということは、どういう場合にでも、非常にいいことであります。 (中略) ただ坐っている時だけ落ち着くとか、静かなところでは落ち着いているとか、そういうことでは、本当に落ち着いていることにはなら ないのでありまして、如何なる場合にもそれが落ち着いているというのでなければなりません。 (中略) なんどきでも落ち着いている。あるいは死が来ても、生死というものに直面しても、それが落ち着いている。 それは頭でそういうわけじゃいけないんで、自分自身がそういうものにならなくちゃならない。そこにやっぱり、ただ考えただけじゃ なしに、実際そこに行というものがなけりゃならないわけであります。そういう根底というものに本当の自己がある。むしろ、本当の 自己というものにめざめることによって、そういう落ち着きが出来てくる。−−」
本当の自己、つまり無相の自己を究めて、始めて世界と歴史へ貢献し、正面から立ち向かうことが出来る。 このようなFAS協会は、今、2007年にはどうなっているのであろうか。 久松真一氏の提唱したことは、その後、その意図の如くには、世界的また国内的にも普及したとはいえないようだ。 しかし、それは予見的であり、現在にこそ、いまだに先見性を有するこのような視座は、実に必要不可欠だと思う。 20007年5月4日 ichikawa
それは畢竟、「真人」たることであろう。 久松真一氏によれば、「歴史を超える」とは、形なき自己を覚り、本来の面目に目覚め、自心是仏の境にあって、真に自由な立場で、 個人を超えた世界の立場、すなわち、歴史の場にありながら、歴史を超えて、自らの歴史創造の働きからも自由であることなのだ。
キリスト教的人間像は、神。 真宗的人間像は、阿弥陀仏。前者は絶対依存宗教であり、後者は絶対他力宗教である。 そのいずれにも属さない禅的人間像は無依の道人である、と氏は言う。つまりはそれが「真人」なのである。 少々荒っぽいが、私は勝手に、こう思う。
1844年、ニーチェ誕生。 ツァラトゥストラは山を降る。その森の中で白髪の翁と出会う。そのあと、ひとりになって自分に言う。 「いやはや、とんでもないことだ。この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」 (『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英広訳) 彼は森のはずれの町に入り、民衆に向っていう。 「わたしはあなたがたに超人を教えよう。人間は克服されなければならない或る物なのだ。−− 超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意思は声を発して、こう言うべきだ。<超人こそ大地の意義であれ>と。」 ニーチェは時代を超えるために「神々は死んだ」といった。そして透明な古代ギリシャの自然哲学へ逆ジャンプする。 「超人」の思想を携えて。 ニーチェの「超人」は、神々の死を告げる。 1703年(元禄16年)、安藤昌益誕生。 1899年(明治32年)になり、彼の書いた『自然真営道』が、ようやくその姿を見せた。 当時には、狂人の記したものか、と思われたという。そんな奇妙にして、かつ膨大な書が世に現れたのである。 その書の「大序」には次の言葉が書き込まれている。(安永寿延現代語訳)
「自然(ひとりする)とは、互生の妙道の名号である。互性とは何か。それは次のようなことである。すなわち、無始無終なる土活真が 自行して、小さくまた大きく進退することにより、小進水・大進水・小退金・大退水の四行が生じる。この四行がさらに進退すると、 互性としての八気が生ずる。木は始めをつかさどるが、その本性は水である。水は終わりをつかさどるが、その本性は木である。 だから、木は始めでもなく水は終わりでもない。ともに無始無終である。」
これがその冒頭の言葉だ。 続いて、昌益は、<自(ひと)り然(す)る>互性の妙道を、自然といい、「土活真」を説いていく。 昌益の、江戸時代には想像を絶する、このような<時代を超えた>独創的思想は特異な展開を見せ、切り込むように提示される。 「活真とはなにか。土は天地の中軸に位置しており、活真は土と一体であるから土活真である。」 「法世」という人為的環境ではなく、「土活真」と、「直耕」といったキーワードによって「自然世」の再来を目指すのだ。 彼一流の、儒教・道教・仏教の批判と同時に、独自な思考による自然哲学を述べている。 或る意味で、ニーチェは、まるで、昌益の再来かと私には思わせるのである。
大序は次のように結ばれる。 「誰かの書を声を出して読み、直耕という活真の妙道を貴ぶものがいたら、それはいうまでもなく、『自然真営道』の著者の再来である。 この著者はいつも誓っていっていた。 <わたしは天において死に、ついで穀物のなかで安らい、やがて人として生まれる。いかに年月を経ようとも、誓って自然活真の世を 実現してみせましょう>と。 こういって天に帰っていった。自然真営道を明らかにしたのは、まちがいなくこの人であった。 この人は、自分自身に十分に備わっている活真を天の活真に一和させて、活真の妙道をみずから現わしたのである。 だから、この人はみずから誓って、それにたがわなかったのである。」
互性を明瞭に見たことにより、昌益はまざまざと生まれ変わり、死に変わることを知っていたというか、信じていたというべきか。 昌益が抱いていたのは、何か身近な不滅と再生と循環の、生の思想というか、生死の思想というべきか。 死は遠くにあるのではないというのか、いや表裏一体の生死というべきなのか。 2007年5月5日 ichikawa
私の手元に、法蔵館だ出していた季刊誌『仏教』がある。 昭和も最後の1988年の7月号に、安永寿延「禅門の異端 安藤昌益」が掲載されている。 それを私は繰り返し読んで、そこに朱の傍線が幾重にも引いてある。それは後日、従来の昌益観を一変させた見解が示された見方であった。 その幾つかを例示るると 「道元とともに昌益も体験した曹洞宗座禅、すなわち黙照禅は、(中略) ひたすら<吾我を離れて>無念無想に向おうとするものであるが 、 そもそも禅定と同義の<止観>は、しずかに精神を集中して世界の真実の相を観想することであった。 道元にとって、修行とは仏道を耕すことであり、田畑を耕し作物を栽培するように、ひたすら全宇宙を凝視し、それと対話することである。 (中略) 昌益にとって、直耕こそは世界の真実のすがたに迫る聖なる営み、すなわち直行そのものにほかならなかったのである。」
「互性の概念は、単に自然お無差別性を説くにすぎない道家の<万物斎同論>の影響よりも、価値的な二項対立の論理である陰陽概念を、 この縁起思想によってとらえなおしたものであることは、まずまちがいない。」 「昌益は、彼なりに仏教思想ないしは仏教的ろんりの大胆な読み替えを敢行した先駆者の一人になった。(中略)もはや自分の語彙から消し去ることの殆んど不可能に近い仏教語や仏教的論理を逆手にとって、新たな自己の論理や思想を構想し、 表現した。その意味で、逆説的な言い方をするなら、昌益は教団・教派の外にあって、あえて禅門の異端・異教徒たらんとしたのであり、 そのように自己を位置づけることにより、仏教そのものの覚醒を図ろうとしたのである。 それが彼の生涯における最も重要な第二の転機であるとともに、いわゆる昌益思想の誕生を告知するものであった。」
1992年(平成4年)10月7日に高知新聞は、新段階の安藤昌益研究 八戸市で国際行事も、との見出しで、 「安永教授はこのところ、昌益59年の生涯で、八戸に姿を現わす前の<空白の40年>は禅僧だったとの推論を発表してきた。 また、<直>は仏教や伝統的な意味では<正>と同義。従って天・地・人のすべてが間断なく行っている<直耕>とは、昌益にとって 肉体労働というより,全自然の営みを正しく認識し、その本質を生きる行為。というのが安永教授の新たな読解なのだ」とコメントしている。 そこで紹介された『安藤昌益ー研究国際化時代の新検証』が発刊されたのは、同年1992年の10月15日だ。
同書の第1部は、 「その人と思想」である。 ここでも私が特に教えられたのは、道元との関係である。例えば、 道元の「只管打坐」は、 「修行者が、非対人的な場においてひたすら沈黙に徹しながら、瞑想のなかで全宇宙と対話する黙照禅である。 これが日本曹洞宗の著しい特徴であった。結果的に彼はインドにおける原始仏教の論理に回帰することになったが、 彼にあってはそれこそが<耕道>であった。このような<耕道>の概念が、のちの昌益の独創的な<直耕>概念の創出を 触発する契機となる」 「道元のいう<耕道>を本来の概念に引き戻すことによって、新たに<耕道>という独自の概念を創出すると共に、道元の只管打坐の思想に 即するように、直耕が活真の営みそのものであることを主張した。 (中略) いっさいの経典に対して反逆しながら、なおかつ道元の,もっとも本質的な論理の軌道に沿うことによって,全自然・全宇宙を解読すべき唯一の テキストとして道元の論理を位置づけることにより、みずからの思想の中核的な部分を展開したのである。」
この書には、触発されてつぎの落書きをした。 人類学(自然世への道)
自然哲学 社会思想
仏教思想(人間学としての医学)
人が時代を超えるもの それは、回帰の思想である。 道元は原始仏教へのーー 昌益は、無碍なる自然世へのーー ニーチェは透明な古代ギリシャへのーー 2007年5月6日 ichikawa
預言者的な哲学詩人たるニーチェーーーー彼の創出した「ツァラトゥストラ」の超人思想。
極限的に練磨された知の匠たるヴァレリーーーー彼の創作した「テスト氏」という主知的なまぼろし。
超脱した只管打坐の哲人たる道元ーーーーー彼の珠玉透徹の「正法眼蔵」の内的な光線。
批判tご独創の同居した行者たる安藤昌益ーーーー彼の求めた土活真を直耕する「真人」。 覚の宗教哲学を学究した禅者たる久松真一 ーーーーF・A・Sに生きる無依の道人としての「真人」。
例えば、道元は、インド原始仏教の論理への回帰。 ニーチェは、古代ギリシャ哲学への回帰。
昌益は、人為なき自然世への回帰。
久松は、殺仏殺祖による源泉回帰。
ところで、もうひとり 神智学・人智学のルドルフ・シュタイナーだ。 彼は、宇宙進化論によりアトランティス時代を見る。
そこから、つまり惑星的な視座とでもいうべき場から、人間の運命を見定めようとする。 私たちは何処からそして何処へ、それを極めて巨大なスケールをもって求め、そして説く。 以下は、その大きな超し方と遥かな行方という観点の切り口で、この神秘学の核心的な部分と思われるところを、私流に拾ってみる。
シュタイナーは、神智学から、やがて人智学へ移行するが、氏の生涯の主題は「心的世界」と「霊界」に関する記述であった。
「私はいつも水晶のように透明な概念を用いて、霊の世界へ入って行こうとした。概念や観念の体験が私を観念的な世界から 霊的・実在的な世界へと、光美いてくれた。」
「人間は、大宇宙的存在であり、自己の内部に残りのあらゆる現世的世界を所有する。そして残余の存在を切り離すことによって、 小宇宙へ到達している。これが私にとって新しい世紀の最初の数年間に、やっと獲得できた認識であった。」
「霊的世界に関する知識としての人智学」 「人智学的世界観は合理主義や主知主義とは全く異なる形での人々の芸術活動jの中に吸収された。芸術的なイメージは合理主義的な 概念よりも霊的性格が強かった。 芸術的要素は生き生きとしていて、主知主義のように心の中に潜む霊的要素をよくあつしてしまうことはない。」 「ーー1907年にミュンヒェンで神智学協会ドイツ支部の主催により開かれた神智学会議がある。 (中略) ミュンヒェン会議で、(中略) 私の最も重視したのは、抽象的で非現実的な象徴的表現を排し、芸術的感性をして語らしめることであった。 (中略) ――重要なことは、この会議に芸術的要素が加わったことである。そしてそれは、今後協会の霊的活動は芸術を無視してはもは続行しえない 、 という、私たちの意志の表明でもあった。農業の女神の役を引き受けたマリー・フォン・ジーフェルスは自らの演技によって協会における演劇活動 の目標とすべき理想を明確に指し示していた。 (中略) イギリスやフランス、特にオランダの神智学協会の古参会員たちの大部分は、ミュンヒェン会議によって彼らに齎された改革に密かに反発していた。 ――彼らが人智学の潮流によって、従来の神智学協会とは全く異なる内的態度が表明されたことに気がついてくれたらよかったのだが。 しかしそのことを理解できる人は僅かしかいない。。この内的態度の中にこそ、人智学協会が、なぜ神智学協会の一部としてとどまることが 出来なかったのか、ということの真の理由である。ーーー」
シュタイナーの自伝は、ここで途切れる。 1925年3月30日、シュタイナー逝去 (出展は『シュタイナーの自伝ーわが人生の歩み』伊藤勉・中村康二訳 人智学出版社)
私にはシュタイナーの卓越と低俗の狭間に苦しむ内心の孤独が、何か思いやられる。
2007年5月7日 ichikawa
「殺仏・殺祖」と「直耕・転真一体」
「臨済録」 臨済 仏に逢ふては仏を殺し、祖に逢ふては祖をこ殺し、羅漢に逢ふては羅漢を殺し、 父母に逢ふては父母を殺し、眷属に逢ふては眷属を殺し、始めて解脱を得て物と拘らず、
透脱自在なり。
「無門関」 無門・慧開 仏に逢ふては仏を殺し、祖に逢ふては祖をこ殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、 六道四生中に向って遊戯三昧ならん。
「証道歌」 永嘉 了々として見るに一物無し、亦、人も無く、亦、仏も無し。
「自然法爾章」 親鸞(八十六歳述作) 無上仏とまふすは、かたちもなく、まします。 かたちもましまさねゆえに自然とはもふすなり。 かたちましますとしめすときは、無上仏とは申さず。かたちましませぬようをしらせんとて、 はじめて弥陀仏とまふすとぞ ききならひてさふらふ。
例えば以上のように、形の無い、無相のものでなくては、真実ではない。 神仏も自己も、真には無相である。
公案禅 臨済 久松真一 無依の真人 「禅では、無相の仏を真仏とし、その真仏こそ真の自己であり、真人とする」との場で、久松氏は語る。 「禅は、超越的な神を立てるセイズムでもなければ、また普通の人間を中心とするヒューマニズムでもなくして、本来の面目、 すなわち真人に覚めた真人主義ということが出来ます」と。
黙照禅 道元 安藤昌益 直耕の真人 道元『正法眼蔵』 <仏向上事> 洞山良介(807−69)と僧との問答
高祖悟本大師、示衆云「須らく仏向上の人有ることを知るべし」 時有僧問「如何ならんか是れ仏向上の人」 大師云「非仏」 雲問云「名づくることを得ず、状(かた)どることを得ず、所以(ゆえ)に非という」 保福云「仏非」 法眼云「方便に呼んで仏と為す」 ーーいかならんか非仏と擬著(ぎぢや)せられんとき、思量すべし、ほとけより以前なるゆゑに非仏といはず、 仏よりのちなるゆゑに非仏といはず、仏をこゆるゆゑに非仏なるにあらず、ただひとへに仏向上なるゆゑに非仏なり。 その非仏といふは、脱落仏面目(とつらくぶつめんもく)なるゆゑにいふ、脱落仏身心なるゆゑにいふ。
「逢仏殺仏、逢祖殺祖」(仏に逢ひては仏を殺し、祖に逢ひては祖を殺す) 「殺仏すといへども逢仏す、逢仏せるゆゑに殺仏す」 以上、道元の言葉まで引かせていただいたが、ここに、私にはやはり、これらの先哲の極点に共振する波長を感ずる。 また、遠く、ニーチェのツアラトウストラが重なる。 昌益もまた然りだ。
安藤昌益著『自然真営道』 安永寿延現代語訳によると、 昌益は 「私法による収奪と騒乱の世にありながら自然活真の世に合致する方法」をテーマとする文章の中で次のように述べる。 この天地生成の精妙な順序についていえば、まず天は地の外にあり地は天内にありながらも、外なる天の内部に地が備わり、 内なる地の内部にも天が備わることによって、天の本性は地、地の本性は天という、天地互性の関係のもとに、さらに八気が 通・横・逆に運回するなかで、互性の関係にある日・月・および恒星・惑星が生成し、活真の運回はわずか一呼吸の間にも 止まることはない。 このように、活真は万物を生じつづけて尽きることがない。これが活真の天地(宇宙)における直耕である。 このような天地に対して、小天地であるのが男女(ひと)である。 だから、(天地の関係に対応して)外なる男の内に女が備わり、内なる女の内部に男が備わることによって、男の本性は女、女の本性は男という 男女互性の関係のもとに、さらに、神と霊、心と知、念と覚といった精神的活動が互性の関係にあり、それらとともに八つの情が通・横・逆に運回し ながら、人は穀物を耕し麻を織ることによって、行きつづけていき絶えることがない。 これが活真の男女における直耕である。 天と地は一体であって上もなければ下もなく、ともに互性の関係にあって二別のもとにはない。 ところが、聖人が出現して、耕すこともせず無為に過ごし、天と人の営む直耕の成果を盗んで食らいーーー云々 人は、少しでも活真の妙道を認識して、その行いを改めなければ、無限に迷いにいたる欲にとりつかれ、収奪や争乱を絶やすこと はできない。 これが私法の世の実情なのである。
もし上に、活真の営む妙道を理解した正人がいて、人々の行いを改めるなら、この私法の世は今日にも人々が一様に直耕する活真の 世となるはずである。 しかしながら、上に正人がいない以上、現状ではどうすることも出来ない。 しかし、なおかつ収奪と争乱の絶えることのない世を憂えるなら、上下の関係のもとにある収奪と争乱の世にありながら、自然活真の世に 到達する方法がある。 寺僧には、それが仏法を説くことを止めさせ、田地を与えて耕させる。寺僧にさとしていう 「直耕は転真の妙道である。いわゆる成仏なるものは、実は転真に到達することの別名にほかなららい。だから、直耕するときは転真と 一体であるから、とりもなおさずき生き仏である」 このように言い含めて耕させる。
仏法の地蔵についていえば、 「地」は田畑のことであり、「蔵」は田畑から取り入れた実りを蔵することであり、つまりは直耕を意味する。 だから、人にこのことをさとして耕させることが地蔵である。 観音についていえば、 「観」は、直耕が転真の自主的にはたらくことを観ること、「音」は、転真の吐く息から生じるものである。だから、 観音とは、転真が直耕することの別名である。人にはこのことをさとして耕させる。 薬師如来についていえば、 これは瑠璃光如来とも呼ばれるが、瑠璃光とは春の木気が放つ青色の光りのことである。つまり、それは 転真が直耕をはじめるときの別名である。人にはこのことをさとして耕させる。 不動明王についていえば、 不動とは、天地(宇宙)、その地の中央にある大地が動かずして田畑となり、人に耕させることであり、 この中央の大地は転真の精妙な具象体であり、耕道を具現するための大本である。 大日如来とは、 太陽の別名であり、直耕して万物を無限に生じつづけて止まない、中心的な存在である。 阿弥陀如来の 「阿」は、(言葉の最初の音であるとともに、森羅万象の始まりを意味するから)春の種蒔き、 「弥」は、夏の雑草の刈り取りによる穀物の弥々(いよいよ)盛んな成育、 「陀」は、秋の実りとその冬の収蔵が陀く(堅く)行われることである。
阿弥陀如来の、いわゆる四十八の誓願も、 四季・八節を通じて耕す穀物が実り、成育が成就されることの別名である。だから、それもつまりは直耕の別名に他ならない。 修験者は、口では仏典を読誦しながら、行いのうえでは祈祷や神事に遷延する。 その仏とは、直耕する転真の別名であり、神とは、 天神たる太陽、つまり直耕をつかさどるもののことである。 修験者には、神道と仏教の両部習合は直耕の別名とさとして耕させる。
※ 訳者安永氏の注記
1、地蔵 「地蔵」の本来の意味は、「地を含蔵するほどの徳をゆうするもの」、または「地がいっさいの宝を含蔵するように、いっさいの 徳を含蔵するもの」。 昌益は、「蔵」の文字を収穫物の収蔵の意味に読みかえる。 2、観音 「(この世の仏法を)観ることにおいて自在であること」。 「世間の衆生が救いを求めるのを聞くと、ただちに救済すること」(『法華経』観世音普賢菩薩門品) 昌益は、「観」の字を天真の直耕を観ることの意味に読みかえる。 3、薬師如来 人々の病を癒し、苦悩を救う仏。 東方の瑠璃浄土の主宰者であるので薬師瑠璃光如来と称される。 昌益によれば宝石である瑠璃の青色は木気に属しており、同じく木気に属していて直耕の開始の季節である春と 対応しているから、木気の共通性によって薬師如来は春の別名であるとする。 4、不動明王 「不動なるもの」とは、本来はヒンズー教の最高神「シヴァ」の呼称の一つであった。 真言密教の胎蔵界においては、大日如来が姿を変えた修験者の守護神となる。 不動明王信仰は空海によって導入され広まった。 昌益はこの「不動」を、直耕を実現すべき不動の大地と読みかえる。 5、大日如来 「遍く照らすもの」を意味し、本来は太陽の光照のことであったが、華厳宗のVairocana(bビルシャナブツ)を経て 真言密教の本仏となる。 金剛・胎棒の曼荼羅では、宇宙の中心に位置する根本j仏であるとともに宇宙全体を表す。 6、阿弥陀如来 西方極楽浄土の主宰仏。 東アジアの浄土系宗派の本尊。 昌益は、「阿」を木気=春 「弥」を火気=夏 「陀」を金気=秋 水気=冬 というように仏名を音韻的に分解して、活真の直耕である四季に結びつける。 7、四十八の誓願 阿弥陀仏が悟りをうる前の法蔵比丘の時期に、いっさいの衆生を救うために発したと言う四十八の誓願。 昌益は、四十八という数を四と八に分解し、それを種蒔きから収穫までの四季・八節に結びつける。
以上、安藤昌益の『自然真営道』の中から、安永延寿氏の訳と注記により、私流の角度からピックアップさせて頂いた。 私は、これらを研究対象としてではなく、わが心の生きてゆくうえでの糧として再び学び、あらためて或る予見的視座を、74歳の晩節とはいえ 抱くことが出来たように思う。 ここから、何か一つの行方が見えるのを感じているのである。 2007年5月15日草 5月22日追 ichikawa 曹洞宗に入って黙照禅を体験したと思われる昌益は 道元の「逢仏殺仏 逢祖殺祖」の極点を「自然真営道」に見たのではないか。 臨済や無門の公案禅を習得していた久松真一は 「殺仏殺祖」の自在境を念じ、利休の茶の湯を行じたと思う。
木の葉に 実在のみの 幾重もの認識の層を啓く それを観る自分、その自分を見る自分、自分も幾重にもなっている 実在だけの世界では、すべてが一如
2007年5月20日想 5月26日記 ichikawa
霊視・活真・医学体験 見出しに戻る 生涯の比較から −その近接性を尋ねてー
安藤昌益 誕生 シュタイナー誕生 703年(元禄16) 1861年(オーストラリア) イギリス、ポルトガルと貿易協定 ウィルヘルム一世 トルコ文化興隆期(チュウリップ時代) 自由主義者の進歩党結成 前年赤尾浪士討ち入り イタリア卯王国建設 近松門左衛門「曽根崎心中」 アメリカ南北戦争
1868年(7歳) 超感覚的感知芽生える 1871年(10歳) 地動説知る 文学に興味 曹洞宗の禅林に入門15歳の頃 「雨水の小さな水溜りに天が浸され、その晴朗なるさまを見て、 1877年(16歳) カント「純粋理性批判」独学 忽然として迷いが瓦解・氷解し、身心のあることを知らない状態になった」 その大悟徹底によって「印可」を授与される (「統道真伝」) 1879年(18歳) フィヒテの知識学ぶ ウィーン工科大学入学 このころ自然科学と自分の霊的体験のギャップに悩む
1883年(22歳) ゲーテ「ファスト」に触れ、生涯にわたる影響 ー自然(物質)と霊(精神)の架け橋を示す ゲーテの世界観に触発され、 これを客観的観念論と呼ぶー 特にゲーテの「色彩論」を学ぶ ウィーン工科大学を退学する 1884年(23歳) 家庭教師 1886年(25歳) 「ゲーテ世界観の認識要綱」出版 1889年(28歳) ニーチ「善悪の彼岸」研究 1890年(29歳) ゲーテ・シラー遺稿保存局に勤務 : ウィーン「国民新聞」に演劇評論掲載 昌益、30歳の頃まで仏門にいたのではないか。 ともかく、昌益は十数年の修行・研鑽を積み、 1891年(30歳) 哲学博士の学位取得 「身心脱落」を体験した正真正銘の禅僧であった。 学位論文 「認識論の根本問題」 その後、静かに仏門をあとにして、心の救済から、 ー特にフィヒテの知識学を考慮して− 身心の救済としての医学修行に入り、 40歳近くまで医学の研修に励んでいたことになる。 1892年(31歳) 「真実と科学」 「自由の哲学」出版 おそらく、京都で学んだことだろう。 (安永寿延氏) 1896年(34歳) 「フリードリッヒ・ニーチェ時代の闘士」出版 1896年(35歳) 保存局・退職 1879年(36歳) 「ゲーテの世界観」出版 ゲーテとヘーゲルの関係性論ずる 1896年(37歳) 「演劇」創刊 翌年に廃刊
1899年(38歳) 結婚 労働者教養学校で授業 歴史、演劇、文章表現など教える 1900年(39歳) ベルリン神智学文庫にて連続講義 ゲーテ、ニーチェ、神秘主義について 1902年(41歳) 神智学協会の会員になる 1744年(42歳)延享元年 神智学協会ドイツ支部を設立して 八戸城下の町医者として登場する 同協会支部の事務総長に就任 漢方医として歩み始める 1904年(43歳) 「テオゾフィー(神智学)」を出版 「アカシャ年代記より」雑誌連載開始 労働者教養学校から批判出る 15年間八戸に居住し医療に携わる (翌年 同校退職)
1908年(45歳) 「哲学・神智学出版」設立 安藤正信を名乗り、一般的な号として「昌益」 後年「」人智学」となる 医師の号は「確竜堂」 字は「良中」を名乗る 1910年(49歳) 『神秘学概論』出版 宇宙進化論を入れる 1753年(51歳) 『自然真営道』発刊 1912年(51歳) 「アントロポゾフィー的魂の暦」出版 (著作者名) 確竜堂良中 1913年(52歳) アントロポゾフィー協会 第一回総会を開催(ベルリン) 1753年(53歳) 『自然真営道』大序執筆 1914年(53歳) 第一次世界大戦勃発 易経によれば、確竜とは、「確固としてその貞操は奪い得ない 再婚 人物こそは、地下に潜む竜というべき」とある 1917年(56歳) 実践的社会運動行う 確門には、仏教修学の体験、優れた医療技術とその人物を慕い 藩医、宮司、藩士、庄屋など十数名が参加していた 1918年(57歳) 第一次大戦終結 「儒者の安藤昌益」 1919年)(58歳) 自由ヴァルドルグ学校開校 昌益の執筆活動には、朱子学の影響歴然という(安永寿延氏) 「ドイツ国民及び文化世界」出版 1758年(56歳) 二井田村に移住 1920年(59歳) シュタイナー医学の創始者となる 活発な啓蒙活動展開 1921年(60歳) 「臨床治療研究所」開設 農と医の一体的原理による救済実践指導 治療オイリュトミー講座を開く (徳川時代の八戸地方は天災そして 「経済の根本問題」講演 二年に一度は大飢饉に襲われた) 自伝書く 1763年(60歳) 昌益病没 1923年(62歳) 自伝『わが生涯の歩み』 週刊「ゲーテアヌム」に連載始める 没後 1764年(没2年後) 「守農大明神」石碑建立。 1924年(63歳) ゲーテアヌム再建構想発表 ☆ 「霊学のための自由大学」にて 第一学級講座開講 ☆ 「農業講座」にて バイオダイナミック農業の基礎を築く ☆ その他 各種の講座で講義する 「言語イリュトミー講座」 「治療教育講座」 「演劇講座」 1925年(64歳) シュタイナー他界 没後 1928年(没3年後) 「第二ゲーテ アヌム」完成。
その直感的な認識を考究のため、以上のように拾ってみた。 「農」と「医」と「教」=根底的なところでの救済への志向性
昌益とシュタイナーは、158年もの年代の開きにもかかわらず、そこには強烈にお互いが共振するものがあると思う。 思えば、『デリタから道元へ』を著した森本和夫東京大学名誉教授宛ての、当のデリタ氏からの手紙に 「諸々の”類似”は、たんなる類似以上のものであって、私に、多くの考える糧を与えてくれるのです。 それも、困惑と同時に厳しさの中においてーーーー」
道元とデリタの間には、750年という時の隔たりがある。 がだ、この二人にも、時空を超えた精神の出会いの不思議な音律があるようだ。 2007年5月26日 ichikawa
昭和50年代の前半、窪川町農村開発整備協議会により発刊した一連の計画書がある。 窪川原発騒動前夜のことだ。 1979年(昭和54)3月に、その計画を論集するために私が執筆した一冊がある。 『窪川町農村空間整備計画序説・補論ー住みつく里の文明的意味を求めてー』と名づけた本だ。 以下の図表は、その書で展開した論理の概念構図である。
もう一つ、「昌益を読む会」。 これは、窪川原発騒動の後、それが齎した地域の深い亀裂の中で行った。 私の館長時代、窪川町立図書館で主宰したものだ。 以下の一文は、その会の趣意を帰したものである。 安藤昌益は、1703 年、今から約290 年前に生まれた。 ルソーの「科学及び芸術論「人閣不平等起源論」「社会契約論J などが世に問われた時代と重なっている。 そして真の農業が谷間深く落ち込んで久し い時、彼の思想は現代に蘇る必要がある。 農の里・窪川で「安藤昌益を読む会」を開設するのは、その故である。 1990年(平成2年) 窪川町立図書館 市川
「邑政コミューン」。 これは昌益が提唱した社会改革プランである。 がだ、どうだろう。 むしろ、21世紀の前期の今、ここで何とかしなくてはならい時、この昌益のプランは現在に投影させねばならない。 現代版「邑政コミューン」が不可欠ではないのか。
さて、農業を考えるとき、シュタイナーの方向性が、近代合理主義に取って代わらなければならないと思う。 「一つの農場というものは、それが一種の独立した人格として、つまりそれ自体として完成した固体として捉えることが 出来る時に始めて、本当の意味でその本来の生存様式を全うしていると言えるのであります。 それぞれの農場は本来、独立した固体というこの状態に近づけて行くべきものであります。」 「一つの農場が完結した生命体を持っていなければならない、ということについての認識を得ておく必要があります。 「太陽光線、太陽熱、およびこれらと気象学的に関連を持つ総てのものが、植物を生産する太大地の形成と特定の関連を持っていることは知られています。 しかしながら、これらの事柄がどういう関係あるのか、ということは、今日の物質主義的観点からは、本当の解明が全く与えられていません。 なぜならば、現在の物の見方は、現実相、つまり本当の事実の中に入り込んでいないからです」
「大地がそれ自体として、一つの生命を持っているのみならず、自ずから植物的な性質を内蔵し、 またそれに止まらず、アストラル的に作用するものさえ大地の中にあるのだということは捉えられておりません」 「地球の内部、すなわち地表の下で起こっている総てが植物の全成長過程に対して働きかけるそのあり方は、 あたかも我々の頭部が、特に幼児期において我々の肉体機構に著しく働きかけ・その後も全生涯にわたって働き続ける、あの作用に相応しております。 地表にあるものと地下にあるものとは、絶え間のない活発な相互作用を行っており、地表上に見られる作用は、直接に月と水星と金星の影響下にあるのであり、 これらの天体の働きを太陽が助け、かつ調整しております」 「大地を耕作するために見究めておくべき最も大切なこと、それはどのような条件の下で、宇宙が地球に向ってその力を発揮できるかを知っていることであります」 「−−そこに小規模な混沌状態が生じたとき、周囲を取り巻いてる宇宙の総体が、この種に向って働きかけ始め、その種の中に自分の似姿を刻印し、 この小さな混沌世界を、全面から働きかける宇宙の影響力によって、作り変えてしまうのです。 このようにして、種子の中に我々が持っているのは、宇宙の似姿なのであります」
「個々の植物の中に象られるものは、常に宇宙に存在する天体のいずれかの似姿でありまして、宇宙から働きかける力によって作り出されます」 「私たちが宇宙に力を発揮させ酔うとする場合、常に地上的なものを出来る限り混沌状態にする必要があろのです」 「人類は様々な分野において、自然ならびひ宇宙の関連の総体から再び何かを学びとるか、さもなければ自然及び人類の生命を枯死滅亡させるか、 この二つに一つを選ぶほかないのでらります。 古き時代において、人間が本当に自然の有機的構造の中へ入っていく知識を持つことが不可欠であったのと同じように、 今日の私たちもまた、本当に自然の有機的構造の中に入って行く知識を再び必要としているのであります」 「宇宙的な意味で最も質の高い分解作用が生じるためには、植物の繁殖する地域と、その地域に住む動物とが一体となった関係を結んでいることが必要です」 「農場が健康であれば、農場は自分の持つ動物たちによって自分自身に肥料を与えているものであります」 「事物を形体的に観察しますと、この、それ自体として完結した固体である農場において用いられる総てのものの理解に達することが出来るのです。そのためには、 動物の存在を前提にしなければならないのであります」
医と治療の哲学とは
シュタイナー教育と宮沢賢治のかかわりについての管見
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