邑信1

トップに戻る


 

 ☆ 2006/5/2 「窪川谷の風音」  

 

 風薫る平成18年の5月が拓く。

 

 公務多忙の山場を、ようやく越えた。

  公人十年ひと昔

        繁忙の 時を降り立ち ふと見れば

                友なきあとに 菖蒲咲きおり


 



  ☆ 「大山を見て」  窪川谷の風音

 この八月末(2006年)、十年ほどの非常勤の公職から,ようやく放れた。

 身の置き所の自由を得た感じだ。

 そんな十月も終わりになったころ、妻とともに大山の一日バスツアーに参加した。

 それは、若き日の強烈な印象を思い出したからである。

 志賀直哉の『暗夜行路』の1節だった。

     −−− 

 謙作は用意してきたスエターを着、それを包んで来た風呂敷を首に巻き、そして路から萱の生えた中へ入り、落ち着きのいい所を探して、

山を背に腰を下ろした。

 彼は鼻で深い息をしながら、一種の快い疲れで目をつむっていると、遠くのほうから、今登って行った連中の

「六根清浄、お山は晴天」という声が,二三度聴こえて来た。

それからはもう何も聴こえず、彼は広い空の下に全く一人になった。

 冷え冷えとした風が音もなく萱の穂を動かす程度に吹いていた。

 その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体ののような目に感ぜられないものであるがその中に溶けて行く、

 ――それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。

 何の不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも似ていた。

              (中略)


 疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。

 彼は自分の精神も肉体も、今、此大きな自然の中に溶け込んで行くのを感じた。

 静かな夜で、夜鳥の声も聴こえなかった。

そして下には薄い靄がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下

に何か大きな動物の背のような感じのする此山の姿が薄く仰がれるだけで、

彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したというような事を考えていた。

彼は少しも死の恐怖を感じなかった。

然し、若し死ぬなら此の儘死んでも少しも恨むところはないと思った。

然し永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった。

 彼は膝にひぢを突いたまま、どれだけの間か眠ったらしく、

不図、眼を開いた時には何時か、あたりは青味勝ちの夜明けになっていた。

星はまだ姿を隠さず、数だけが少なくたっていた。空は柔らかい青味を帯びていた。

それを彼は慈愛を含んだ色だという風に感じた。

    −−−

  こうして主人公の謙作は、山を下るのである。

  

  私たちのこの日の旅に、このよう静謐はなかった。

  しかし、時を隔てても、仰ぎ見る大山の山頂の神秘性は変わらない。

  そして、謙作の直感は、釈迦にも荘子や老子にもしっかりと通じている。

  そんなことを再び確認するような一日であった。

   



 ☆ 2006/11/11 「下山の思想」 

 

 山を降る。

 大山は山岳信仰の聖地であった。

 神仏一体の何か大いなるものの時空に触れて、

 人は[お山]を降る。

 天空近き場を後に、流動する埃まみれの空間へ下山する。

 謙作もひとつの澄み切った境地を得て、山を降った。

 そういえば、遠くニーチェの「ツァラトゥストラ」も。


  偉大なる天体よ!

  もしあなたの光を浴びる者たちがいなかったら、 あなたは、はたして幸福だろうか!

            (中略)

  わたしたちがいて、毎朝あなたを待ち、あなたから溢れこぼれるものを受けとり、

感謝して、あなたを祝福してきた。

  見てください。あまりにもたくさんの蜜を集めた蜜蜂のように、 

このわたしも、また自分の貯えた知恵がわずらわしくなってきた。

  わたしは分配し、贈りたい。人間のなかの賢者たちにふたたびその愚かさを、

  貧者たちにふたたびおのれの富を悟らせて喜ばせたい。

  そのためにわたしは下へ降りて行かなければならない。 

  あなたが夕方、海のかなたに沈み、さらにその下の世界に光明をもたらすように。 

  

  わたしもあなたのように没落しなければならない。

  わたしがいまからそこえ降りてゆこうとする人間たちが言う没落を、

 果たさなければならない」

           (「ツァラトゥストラはこういった」ニーチェ著 氷上英広広訳)




 こうしてツァラトゥストラは10年の山暮らしから決別する。

 

 ツァラトゥストラは、ひとり山をくだって行ったのである。

 

 その下山の途中、彼は白髪の翁に出会う。

 この森の聖者との対話のあとで、自分の心に向かって


    「いやはや、とんでもないことだ!

     この老いた聖者は、森のなかにいて、

     まだ何も聞いていないのだ。

      神が死んだということを」 (同書) 


 

  また、ニーチェは「箴言と矢」のなかで書く。


  ―自分の不自然、自分の精神性から元の自分に立ち直るのに一番いいのは、

    野生の自然の中である。―

     

                         (「偶像の黄昏」ニーチェ著 西尾幹二訳)



 神々が死んで、人間の、とりわけ少年たちのこころが荒廃してしまった。

 野生の自然が消滅して、人工の自然すなわち似非自然となった。

 そして日々、犯罪と異常気象が襲ってくる。末世感が漂う昨今である。


 わたしたちはどこからきたのか

 わたちたちは何物なのか

 わたしたちは何処へゆくのか

 やはり、このゴーギャンの言葉が、ズシリと腹にこたえる。