2010年01月20日(水)
美しい世界のなかで−生と死の往還@ [遺書的習作試行]
生と死の往還する世界のなかで¥章
言葉の骨董探し
わたしは、いま言葉の骨董弄りに没頭している。古典や仏典からの落ち葉拾いのようなものだ。
これまでの日々なか、自分の魅せられた言葉探しの逍遥、とでも言えようか。
骨董と言えば、ここに当てはまるわけではないが、おもしろい文章が目についた。
「ジイちゃんの眼は、あらゆる場合に光っており、次から次へと面白い発見をしたが、何といっても古い美術品には、しっかりした美しい形があり、それをわが物にすることによって、人生の糧としたのであろう。
物を食べるように骨董を買い、骨肉化した人間が、単なる蒐集家や美学者になれる筈はない。世にいう鑑賞陶器とはちがって、どんなに高いものでも身近において使いこなし、生活の味がつくのを楽しみにしていた」
白州正子著『遊鬼』のなかにある「何者でもない人生 青山次郎」の一節だ。
そこに青山次郎自身の話し言葉が載っている。たとえば、
「ほら、コップでもピンと音がするだろう。叩けば音が出るものが、文章なんだ。人間だって同じことだ。音がしないような奴を、俺は信用せん」
「自分は日本の文化を生きている」
白州正子は書いている。
青山次郎の文章、
「それは隅から隅まで醒めた文章で、よけいなものの一つもない、骨だけ見せたような文体であった。その範囲において申し分なかったが、文章も生きものであることを、ジイちゃんは忘れていた。読者とともに呼吸をし、同じリズムで歩んで行くことを、無視したように思われる。いや、そんな分かりきったことを知らなかった筈はない。知りすぎていたために、分かりきった言葉を抹殺し、人に快感を与えるリズムや形容詞を拒絶したのである。
結果として、世間に通用しない作品となり、私の記憶では創元社から五百部出版した『眼の引っ越し』は、贈呈本のほか殆ど売れずに終わった。生まれつき才能がなかったと言ってしまえばそれまでだが、ここでも物が見えすぎることの辛さを、ジイちゃんは苦い思いで噛みしめていたに違いない」
また二郎の絵について、
「彼が好んだのは、主として風景画で、一枚一枚の葉にも心を込めて描いた。それは抽象画ではなかったが、自然にはあり得ない景色であり、またどこかで見たことのあるような、将来見るかも知れないといったような、不思議に予感めいたものを感じさせた」
と正子は書いている。
「ジイちゃんは三年この方、寝たきりの病人になっていたが、私はお見舞いに行かなかった。訃報を聞いたのは、熊野の山奥へ取材に行っていた時で、何故か私はほっとした。これは自分でも不思議であり、申しわけないことに思ったが、今でもほっとしていることに変わりはない。 彼は晩年、親の遺産を継いで金持ちになり、暮らしには困らなくなっていたが、その生活はストイックなものであり、それも遊びと放浪に徹し切ったストイシズムであってみれば、もはや見るのが辛かった。」
とある。青山二郎は七十七歳でなくなった。
青山や小林秀雄らに可愛がられ、その才能を伸ばし育った白州正子は、昭和五十五年の『暮らしの手帳』春号で、彼女ならではの追悼の文を書き残した。
これを引用しながら、わたしの思ったこと、
その一つは、精神力の強い時代であった当時の「狂」と「異」である。
二つには、わたしも、【和男のブログ】などのように、自分が納得するためにしか、ひとには通用にないような文章しか書けないこと。
三つには、「人間の死」という事柄だ。
Posted by ichikawa at 18時05分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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