市川和男のブログ

私の書斎には色々なものがある。

かって三十年ほど携わってきた諸々の計画の下書きや、役職時代の原稿などが、

なぜか捨てがたくてうず高く置かれている。

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2010年01月24日(日)

美しい世界のなかでー生と死の往還3 [遺書的習作試行]

 向こう側感性あるいは思惟について

 わたしは、認識的・思想的・感覚的回路について、欧米におけるもの、殊にフランスやドイツ、イギリスなどの哲学的思想の奥底と、東洋、なかんずく日本中世の平安・鎌倉仏教思想とに、”時差”と”呼応”を同時に感じている。

 V・ジャンケレヴィッチの『死』には、
 ソクラテス、プラトン、ライプニッツ、リルケ、ドストエフスキーなどの、人間の深部への言葉がキラ星のように、論考を煌めかす。

 そのモザイク模様が洋の東西を追わず、時の遠近を問わず立ち現れている。

 わたしは、ロシア正教と日本仏教について、勝手な視座で調べたいと思っているが、特にドスとエクスキーの人間の深部や魂を描写する感性と山崎弁栄の宗教思想的な感性に長らく関心抱き続けて今に至っている。

ドストエフスキーは、イメージでもって考え、感覚によって導かれた作家だと言われいる。

 また、ドストエフスキーが関心をもいって読んでいたスェーデンボルグの『天国と地獄』などの諸作を、これまた、極めてイメージ能力の卓越した画家・詩人ブレイクも関心をとって、その評価と批判をしてる。

 確か岡潔だったと思うがは、弁栄上人は、右脳・イメージ脳によって、本を読み、ものを考え、米粒などに経典の言葉や仏像を描いたと書いていたように思う。

 岡潔もまた、右脳で文章を書き、数学をしたのではないか、とわたしは思う。

 弁栄上人は、仏教でいう四智、そのなかでも大円鏡智に精通されていたという。

「四智について明快な解説をした人は、明治以降では弁栄聖者以外には一人もいないといっていい。弁栄師は『無辺光』という大著の中でこのことを明らかにしている」と、仏教学者の紀野一義氏は書いてる。

 また、ハイデッカーの思想詩のような哲学として、『放下』や『野の道』は、これまで述べてきたものと感応道交する世界に位置しているようだ。


 ところで、そのような視線で次の一文を見ると、どうだろう。

 それは、

「自然を、霊魂を、神を、愛を、知る。それは心で知るのであって、知性によってではありません。

 もしわれわれが霊的な存在であったなら、われわれの魂が思惟(神の思惟)の謎を解こうとして飛びまわる思惟の圏が、そのままわれわれの生活と行動の圏でもあったはずです。

 しかし、塵にもひとしい存在であるわれわれ人間は、その思惟の謎を少しずつ解いていかねばならないのであって、その思惟を一挙にわがものとして抱きしめることはできないのです。

 知性が物質的能力であるのに対し、魂あるいは霊的存在は、心が吹き込んでくれる思惟によって生きているのです。
 思惟は魂の中に現れてくるのです。知性は道具であって、魂の火によって動く機械なのです。

 さらに人間の知性は、知識の領域に没頭してしまうと、感情から離れ、従って心から離れて、それだけで別個に働きます。

 もし、認識の目標が愛と自然になれば、その場合は心の前にひろびろとした視界がひらけてきます。

 兄さんと議論をしようとは思いませんが、詩と哲学に関しては、意見を異にするということは言っておきたいのです。

 哲学は自然を未知数とする単純な数学の問題だなどと考えてはならないのです。
 詩人は霊感にうたれて神を正しくとらえるではありませんか。つまり哲学の役目を果たすわけです。
 すなわち、哲学と詩は同じものであり、単により高次のものなのだというにすぎないのです!」

 これは1838年10月31日、ドストエフスキーが、兄ミハイル宛の手紙の中にある言葉だ。

 これは、その抜粋だが、いまから170年以上も前のこととは思えない。時の壁を突き通すようなスパンの予見的視力である。

 21世紀にあるわたしたちの眼前に迫っている危険な状況を、当時本質的に予見しているのではないか。

 手紙の「知性は道具であって、魂の火によって動く機械なのです。さらに人間の知性は、知識の領域に没頭してしまうと、感情から離れ、従って心から離れて、それだけで別個に働きます」という、ここに端を発し、そこから私たちの現前に、これまでにない人間の深刻な状況が醸し出されてるのではないか。

 ロシアのこのころは、わが国の幕藩体制崩壊の前夜であり、どうもそのあたりの地点からの進路に方向性の過ちがあり、言い換えれば、近代前夜に現代の危機の種子があったのではないか、わたしにはそのように思われる。



 次に

 ドスとエフスキー{4月16日の断章」(1864年)から 

    「向こう側は永遠に楽しむもの」(断章の抜粋)を予定
 
                 (記・20010年1月23日)

Posted by ichikawa at 16時52分   トラックバック ( 0 )   コメント ( 1 )

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コメント

貴ブログを読ませて頂けることを幸いに思います。人には通用しない文章とお書きですが、読みながら魂が揺さぶられると言いますか、響いてきます。 コメントしようにも言葉に現はすのが難しいというより表現能力がありませんので申し訳ありません。 スエーデンボルグの事随分前に少しかじりましたが、私には難し過ぎましたので、未だにぼんやりとしか理解してません。

森 篤子 2010年01月30日 17時55分 [削除]

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