2010年06月13日(日)
南方曼陀羅再考 [想念の機撤]
藤原書店は、同社のPR小冊子『機』の2010/3 No216のなで、
『土宣法龍宛熊楠書簡』の刊行を発表した。
五年半前、京都の栂尾山高山寺で発見されたものであるという。
この書簡には、類い希な巨大思想を抱いていた熊楠の、有名な「南方曼陀羅」の構図とその指し示す独自な解説が書き込まれている。
わたしも昔日それにふれたときの印象は強烈だった。
、以後、脳裏に染み込んで離れない。
久しぶりに、かつて繰り返し辿ったその箇所を散策してみた。
そこに鶴島和子は、内達的発展の原型をみたのであった。
、日本の、さらに世界の21世紀的進路への狭き門。
確かに、それは思想の貯蓄所(あずけどころ)であろう。
そこにあるのはある種のベクトルである。
今にして一層その霊魂論や今後の形而上的なベクトルに違いはないが実感される。
以下、南方書簡文中引用
「さて、妙なことは、この世間宇宙は、天は理(すじみち)なりいえるごく、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さももある立体のものと見よ、)前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、いかなることをも見出し、いかなることことをもなしうるようになっておる。
その捗りに難易あるは、図(イ)のごときは、諸事理の萃点ゆえ、それをとると、いろいろの理を見出すに易しくしてはやい。
(ロ)のごときは、(チ)(リ)の二点へ達して、初めて事理を見出すの途に着く。それまではまず無用のものなれば、要用のみに汲々たる人間にはちょっと考え及ばぬ。
(ニ)また然り。
(ハ)ごときは、さして要用ならぬことながら、二理の会萃せるところゆえ、人の気につきやすい。
(ホ)また然り。
(ロ)のごときは、(チ)(リ)の二点」へ達して、初めて事理をみ見出すの途に着く。
それまでは無用のものなれば、要用のみに汲々たる人間にはちょっと考え及ばぬ。
(ニ)また然り。
(ハ)のごときは、さして要用ならぬことながら、二理の会萃せるところゆえ、人の気につきやすい。
(ホ)また然り。
(ヘ)ことに(ト)のごときは、(人間を図の中心に立つとして)人間に遠く、また他の事理との関係まことに薄いから、容易に気づかぬ。また実用がさし当たりない。
(ヌ)ごときに至りたは、人間の今日の推理の及ぶべき事理の一切の境の中で、(この図に現ずるを左様のものとして)(オ)(ウ)の二点で、かすかに触れおるのみ。
(ル)ごときは、あたかも天文学上ある大彗星の軌道のごとく、(オ)(ワ)の二点で人間の知りうる事理に触れおる(ヌ)、その(ヌ)と少しも触るるところないが、近処にある理由をもって、多少の影響を及ぼすを、わずかに(オ)(ワ)の二点を仲媒として、こんな事理ということは分からぬながら、なにか一切ありそうなと思う事理に外に、どうやら(ル)なる事理がありそうに思わるというぐらいのことを創造しうるなり。
すなわち、図中の、あるいは遠く近き一切の理が、心、物、事、理、の不思議にして、それの理を(動かすことはならぬが)道筋を追蹤しえたるだけが、理由(実は現象の総概括)となりおるなり。(後略)」
「終わりに臨んで一言す。目下念仏宗わが国に盛んなり。他宗の比すべきにあらず。ただし、この宗は今日また今後の世にのぞんでは、まことに無意味、浅はかなものと思う。故に早晩取って代わるべきはわが宗なり。 (中略)
ついでに申す。念仏ということも、弘法大師はいうたが、前述禅定と今日の口頭禅とちがうごとく、心の中で仏を念ずるというと、ぶつぶつと口で念誦せよというは大違いなり。(中略)
次に科学を真言の一部として(せずとも実際然り)、宇宙一切を順序たて、人々の心の働きの分に応じて、宇宙の一部を楽しむことをせしめて見よ。いかなるものも心内の楽は数で算えられぬものゆえ、自分の随喜執心次第でいかほども深く楽しみうるものなり。(後略)」
このような南方熊楠の巨大な独創的視座とその角度については、人それぞれに異なり、また現時点での解釈・見方・考え方は異入り交じっていよう。
だが、わたしは、中村元博士が「南方曼陀羅」と名付けたこの超思想的な熊楠の直観と得難い視座には飽くことなく、これからも、少しでも学び続けたいものと思っている。
Posted by ichikawa at 19時28分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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