市川和男のブログ

私の書斎には色々なものがある。

かって三十年ほど携わってきた諸々の計画の下書きや、役職時代の原稿などが、

なぜか捨てがたくてうず高く置かれている。

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2010年06月03日(木)

「こちら側」と「向こう側」の交差点 [遺書的習作試行]


 「目に見えない、向こう側」
  
  それはいったい何であるのか。

 「生死一如というが、その死の世界なのか。

  生の現実、一般的にいう現存世界とは別の次元。

  いわばこの世界の裏側にあってこの世を動かしている「もう一つのいま」の実在。
   
  たとえば、ヨハネの黙示録の世界、またはポーやボードレールの美の感覚世界に見られるもの。

 スウェーエンボルグの『天界と地獄』の「天界」」。  
  
 ドストエフスキーに散見される言葉、たとえは、
   
「霊魂の不滅も神も要するにおなじものです」

「向こう側では生存は統合的に充実したもの、永遠に楽しむものであり、満ち足りたものであり、それ故その生にとっては時間はもやや存在しないだろう」

「あまねくゆきわたるもの」

「イメージでもって考え、感覚に導かれ」ながらドストエフスキーはキリスト像を描く。

「神人の光輝あふれる聖顔、その及びがたい道徳的な高さ、その奇跡的な、そして奇蹟を為すの美しさ」

「キリストこそは人間的美の理想である」                                    (『作家の日記』)


『カラマーゾフの兄弟』結びでは、

 少年コーリャは、アリョーシャに

「ぼくたちは死から蘇って、新しい生を与えられるといっているが、ほんとうですか」

と尋ねる。

 アリョーシャは「必ず蘇ります」

と断言した。

  そして

 『罪と罰』は、つぎのように結んでいる。

 新しい物語が、人間が徐々に新しくなってゆく、人間が徐々に生まれかわり、一つの世界から別の世界へ徐々に移ってゆき、新しい、それまでは全く知らなかった現実を知ってゆく物語が始まりつつある。

 これについて

 ドストエフスキーは「人類が遥か彼方に探し求めているその最終目的を予見し予感する領域へ踏み入っている」と、同時代の批評家シチェドリは1871年4月号『祖国雑報』に書いた。

 「向こう側」へ透徹する感覚に導かれていたドストエフスキー、ポー、ホフマン、ボードレール、シラー、ゲーテ、ヴァレリィ、カフカ、フーコーたち、そのような能力を具有していた人物は、洋の東西を問わず、時の遠近を問わず、数多く存在している。

 それは秘められた、人々が内深く抱いているものだ。

 質の深浅や度合いの大小は別にして日夜、不安と苦しみの中で、生と死が交叉するものに目覚め、いつの間にか生の感覚と死の感覚の交差点に立っているのだ。

 此岸と彼岸の呼び合う、そんなことがあるものだ。

 地球全体の世紀末的状況では、人間の内部でそんなことが頻繁に、近時強烈に起こっているようだ。



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Posted by ichikawa at 18時01分   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

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