2010年06月13日(日)
「黙示録」考 [遺書的習作試行]
第一章
「ヨハネ黙示録」は、新約聖書の巻末に置かれていて、キリスト再臨による最後の審判と神の国の成就について語られている。
それは、貴重で重要な主題であり、また、キリスト教美術への影響も絶大だ。
わたしは独り勝手に思う。
それは、天が人間に授けた「向こう側」感覚の象徴的結晶体ともいえるのではないかと。
ドストエフスキーは「人間は多様から、”総合”へ向かう」という。
全存在の完全なる総合は、神である。
「人間はすべてが死んで無くなるのではない」
京都清水寺に巨大な鰯の、天に向かう大群を、生の黄金の響きをもって見事に描いた中島潔は、先日のNHKの「クローズアップ現代」のなかで、そのように言っていた。
そして
「その人は亡くなってもその人の心ははっきり残っている。その心は子ども孫や、人々の中に深くしみ込んでいきている。ここに描いた命の光が、お母さんにとどけばいい」
そんなふうに、涙に光る眼差しで一語一語低く静かに語っていた。
わたしは、アメリカの哲学者 レオ・バスカーリアの生涯でただ一冊『『葉っぱフレディ』を連想した。
「ぼくは一本の木であり バーバラはこの十年間かけがいのない葉っぱでした」という作者からのメッセージで始まる絵本だ。
このすばらしい絵本の最後の言葉は
いのちは、土や根や木の中の
目には見えないところで
新しい葉っぱを生み出そうと
準備をしています。
大自然の設計図は
寸分の狂いもなくいのちを
変化させつづけているのです。
ともこれらは、生と死の交点、またはいのちの旅、
さらに大きな輪廻転生を、深く描きだし、そっと静かに語りかけている。
第二章
語られる言葉を拾う
ヨハネ『黙示録』第1章は
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起
こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリス
トが、御使いをつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分
が見たすべてのことをあかしした。
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれてい
ることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからであ
る」
ではじまる。
そしてヨハネ『黙示録』は第22章で結ばれる。
「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわた
しに見せてくれた。
この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れてい
る。
川の両側には、いのちの木があって十二種の実を結び、その実は毎月
みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
のろわれるべきものは、何ひとつない。
-----ーーーーーーーーー中略--------------------
この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告す
る。
もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれて
いる災害を加えられる。
また、この預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受く
べき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除か
れる。
これらのことをあかしするかたが仰せになる、
しかり、わたしはすぐに来る。
アァメン、主イエスよ、きたりませ。
主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。」
〔森 篤子さん、【和男のブログ】に頂くコメントは、いつも思考の泉となります。力が湧きます。こころの姿勢が正されるようです。
四万十川の畔・窪川谷から感謝の念を捧げます〕
Posted by ichikawa at 19時30分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 1 )
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コメント
黙示録、第一章、十二節〜 辺りから七つの星と七つの金の灯台 と、言う言葉が出てる様ですが、私個人として、時々思うのですが、人類は壮大な実検といいますか、経験を積みながら、黙示録が示す方角に向つているのではないかと。徴候が見える様な気がします。 ご病気なさつた様で、案じておりました。


