2010年06月13日(日)
「黙示録」考ー2 [遺書的習作試行]
第三章
黙示への前奏曲
シュタイナーの黙示録観に入る前に、黙示の概観についての序曲的な道案内を記しておきたい。
わたしの使い古した、平凡社『哲学事典』(昭和62年2月初版第8刷り発行)の「黙示文学」の項によると、つぎのようにある。
「啓示文学ともいう。後期ユダヤ教の200−100B、Cと初期キリスト教の50−−350の時期に成立した著作。
戦禍や迫害など民族的(のちに教会の)苦難のうちに書かれたものが多く、あおの内容は、メシアの王国の到来による栄光の御代、審判、義なる者の救済の描写であって、その起こる天地の異象が、イスラエル、ペルシャ、などの神話的、宇宙論的伝承にもとづいてえがかれてい。
これらのことが選ばれた人の(ユダヤ教のものであは古代の族長)に幻や天使の告知による神の啓示として示されるという形式をとり、匿名の著作であるが、一人称で神の警告を伝える予言書の形式から、しだいに発展してきたものである。
旧約聖書中のダニエル書、新約聖書中のヨハネ黙示録、同外典中のペテロ黙示録はその代表的なもの。」
ところでここで少し角度を変えてみる。
ご存じ十津川警部シリーズで親しまれている推理小説作家西村京太郎
の小説『黙示録』。
そこには彼の見た「黙示録」についてその概要をつぎのように簡明に記している。
黙示録は正確にはヨハネ黙示録で、聖書の最後になっていいる。
黙示とは、簡単に言えば予言ということだろう。
十津川は、何度か読み返して、聖書全体が予言の書だと思った。
旧約聖書は、キリストの誕生を預言し、新約聖書は、十字架にかけられたキリストの復活を予言している。
最後につけられヨハネ黙示録は、その綜括といっていいだろう。
そして黙示録の最後には、大いなる都バビロンが、予言の如く滅び去り、神の国が現出すること、この予言は、神の言葉であるから信ぜよと書かれている。
栄華の都バビロンが滅び去ったのは歴史的事実だから、全てを、一つの歴史として見るもの一つの解釈だろう。
第二の解釈は、人類全体に対する警告と受け取る方法である。物資と文明に毒された人類は、いつか最後の審判の日を迎えるだろう。その時に備えよという警告である。
第三は、一人一人の魂の書としての受け取り方である。それなら、人類が生きている限り、ここに示された黙示は、永遠の予言になるだろう。
どの解釈が、正しいかは、もちろん、十津川にはわからなし、今の彼には興味のないことだった。
西村京太郎は、推理小説『黙示録』において、十津川に、このように語らせ、物語を展開する。
それは、”底なし沼のような深淵の時代に生きる青年たちが、落ち込みも悶え苦しむなかで夢見る現代の狂気”を描き出すといおう黙示の復活を思わせるステージの近未来ミステリーだ。
Posted by ichikawa at 19時33分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 1 )
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