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		<title>市川和男のブログ</title>
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		<description>市川和男のブログサイトです。</description>
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		<title>仏教遍歴１−密教の扉</title>
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		<description>「密教入門」という仏教漫画を読んだ。　密教の戸口の全体像が現代の切り口で描かれている。　頭を空っぽにして、その世界に入っていくことができた。　そこに新鮮さを感じた。　素直に「いのちがけで生きる」というこの物語の青年の言葉は、　老境のわたしにとっても、切実感をもって迫った。　曼荼羅の世界、阿字観の瞑想を改めて思った。　書架の中から、新たな視線で眺めてみようと二三冊取り出している。　学びに生きようと。</description>
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		<dc:date>2010-09-18T11:31:51+09:00</dc:date>
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		<title>無題</title>
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		<description>　いま、書き込みの言葉が定まらない。心の行方が揺れている。　方向は、西行、親鸞、道元、弁栄、そのあたりを通じて、我が思いを綴ること、その道を辿るしかないのは分かっているがー。　今ひとつ集中力が湧き出てこない。何につけ拡散しやすいのである。　一言で言えば、疲れやすい。内なる絶壁に立ちすくんでいるかのようなのだ。　しかし、ここからしぶとく、ねばり強く幾つかの山は超えていきたい。　だからこそ、一層そのゆくえに弁栄の世界、そして無量寿光仏の次元を垣間見たい。　そのことを、わが心に刻印して置きたいものだと切実に願っている。　　　　　　　　やがて書きます。　　　　　　　　　　　２０１０年９月１２日　市川　和男（宇久）</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2010-09-12T17:31:18+09:00</dc:date>
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		<title>仏教遍歴　西行から</title>
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		<description>　西行の仏教探訪の落ち葉を拾う。　真言密教のなかで、顕密二教を論じた密教行者必須の書『菩提心論』を受けて　　　　無上菩提の心を詠みける　　　　　鷲の山うへ暗からぬ嶺なればあたりを払う有明の月　「霊鷲山の頂きは、明るい無上正覚の嶺だ、だからこそそこに、あたりを払う有明の月のように仏陀がおわしますのだ」（高橋英夫）　　浄土宗のなかで　地獄と西方浄土の両極を見つめて　見るも憂しいかにかすべきわが心かかるむくひの罪やありける　ひとすぢに心のいろをそむるかなたなびきわたる紫の雲　「西行には真言密教への関心と浄土信仰の二つ特徴が併存していたとみるのが適切であろう。ーー　仏教思想上の無方向性とみえるものは、西行な内部では《心》の一元論に置き換えられてよくものとして存在していた」（同上）　わたしはそれを西行無方向性とは思えない。　『覚鑁研究』のなかで、玉城康四郎博士が書いたように「親鸞は空海の生まれかわり」であり、さすればその二つの流れは必然的に合流するものだと、わたしは思っている。　その交差点、曼陀羅の萃点がどう見えるかではないのだろうか。　　</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2010-08-24T18:24:06+09:00</dc:date>
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		<title>浸透し続ける言葉?</title>
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		<description>　前述の先にあるもの　　　上田三四二は、ジャンケレヴィッチの視線をもって、西行を見ている。　西行とジャンケレヴィッチとの独自な交差点に立っていたのはおそらく上田三四二ただひとりではないか。　が、それについては、後に書く。　わたしの書架の一角に数冊の「死」に関する本がおいていることは先に述べたが、その一冊に、著者が生前出版する意図で書いた原稿を一九三三年に新たに構成して、上田三四二『死に臨む態度』（春秋社）として発行した貴重な本がある。　この一章に置かれた「?病んで思うこと」のなかに「旅支度」という文章がある。　それは前述のジャンケレヴィッチに対する考察の延長線上の作品と思われる。　そこに上田三四二は書いている。「旅支度のつもりでベルグソンを読んだ。　どこえ、どう旅立とうというのか。旅、などという美しい言葉では覆うことのできないおそろしい境に向かっての旅立ちだけに、心と身に関するベルグソンの犀利でまた柔軟な直観が多少なりとも慰藉をもたらしてくれないか、そう思って白水社版の旧い全集でその大体を読んだ。　　　　　　　　　ーー　中略　ーー　一体に既成の宗教によらぬ安心立命の道はあるのだろうか。　人間の心のなかには、黄泉的な死後観と浄土［天国］的な死後観との二つがあって、対立しているように思われる。　黄泉的な死後観とは身体よりみた死後観で、イザナギが目にした黄泉平坂のむこうのイザナミの姿をもって象徴することができる。　浄土的な死後観とは魂よりみた死後観で、極楽図を想像したいが、そこにおける死者たちはことごとく透明で、つまりは姿なき霊魂となって嬉遊している。　前者を身体よりみた頽落的死後観、後者を精神よりみた光明的死後観とよんでよいだろうが、両者を単に対立的にみるだけではなく、綜合しうるような視野は得られないものだろうか。　こういう比喩はどうか。　われわれは可視光線を認識の尺度として生きており、それが現世というものだが、死は現世を超えるものであるゆえに可視光線は役立たず、可視光線以外の波長をもって認識しようとする。　そこで、いま、波長を赤色の外に移して赤外線という長い波長に同調せしめるとき、そこにあらわれるのが腐敗する身体、廃棄された身体としての黄泉的な死後世界であり、逆に紫色の外側、紫外線という短い波長に同調せしめるとき、廃棄された身体の眺めは透徹されて浄土的死後世界があらわれる。　両者は異なったものではなく、対立するものでもない。認識の手段に相違があるだけだ。　そしてその認識の手段たる電磁波は、電波、赤外線、可視光線、紫外線、X線、γ線、宇宙線と連帯し、これらのおどろくほど多様で特異な作用を示す波動はみな電磁波という出自において根を同じくし、異なるのはただ波長の長短にすぎない。　身体の廃棄はいたましいが、死は心身一如の可視光線的生の世界にしばらく生きてきた人間が、その存在を紫外線の側へ、あるいはそれよりももっと短い波長の側へと移すことではないか。　死後の世界に魂というものがあり、救いというものがあるとすれば、それはこの短い波長への連続と移動が信じられてはじめて可能だろう。　赤外線の側に死後の世界を移すことは思考実権としては成立しても、方向を謬ったものといわざるを得ない。何しろ、そして何よりも、死は身体の廃棄なのだから。　私はこんな妄想を抱く。世界はすべて波動より成り、人間はーー生命は、赤外線の側より送りとどけられて現世なる可視光線界にとどまり、やがて紫外線の側に抜けて行く。　それが人間の一生であり、生命のライフサイクルなのだと。　サイクルなどというからには、この長い波長の側の最長端と、短い波長の最短端は、どこかで、何らかの機構の不思議によって結びついていなければならない。結びついて円環をなしているのでなければ赤外線の側はかくも可視光線に絶え間なく生命を送り続ける活力を保ち得ないだろうと思われる。ーーー」　三四二はここで比喩という形をとって、死への考察をぎりぎり深めた。そしてさらにそれを氏の抱く妄想だといった。　が、この言葉は、鋭角的の了解をもたらすようにわたしには迫ってくる。　それこそ必死に思い定めた類例のない言葉の刻印だと、わたしは受け止める。　　通常の言葉が三次元的とするならば、透徹し浸透する三四二のこの言葉は、まるで四次元的である。　　この章に続く「日常の割れ目」の章のなかでは、「私たちが疑いないものとして住むこの三次元空間は、まことは、四次元空間である超空間の一つの限定ではないだろうか。立体は、四次元超立体の仮の姿ではないだろうか」　歌人・詩人にして哲人、医学を間団だ科学者にして、一層の哲人であった氏の面影、研ぎ澄まされた思索が結晶した言葉がそこにはある。　是非の世界ではない。直観の世界だ。それは了解するかどうかのみだ。　そして［いま、ここ］を支える、深くて見えないもうひとつの実在界なのではないか。　強烈な引力に魅せられてやってきた言葉の最高峰の断崖だ。　この先は、絶句のみである。　わたしはもうここらで緊張する断崖から、そしてさらに、あまりに透明な波長から、いま少し離れたいと思う。　次階梯としては、感性の路線はひとつだが、地上一寸を歩いた西行についてさらに勝手な引用を含め記しておきたい。　そして、そうして、　遙かなところから包み込むように、わたしには、地上一丈に居たと思われる山崎弁栄上人が、その光明主義の灯台が、ほのかに見えている。、</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2010-08-22T16:45:05+09:00</dc:date>
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		<title>焼き付いている言葉?</title>
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		<description>　もう大分経つが、わたしは母の死が切っ掛けで、ズバリ「死」について書かれた本を数冊求め書斎の書架に置いてある。　母の死がわたしには納得できなかったからだ。　母はいったい何処にいったのか訪ねたっかた。　六十歳近くになっていたわたしの中の何かが崩れていた。　目には見えないが　死して、宇宙一いっぱいになる。そう直観した。　宗教はすべて死について語っているが、千差万別である。　わたしは、その直観にふれるもっと直截な回答がほしかった。　このころになり、その本を振り返る。　【市川和男のブログ】のカテゴリー「遺書的習作試行」にわたしは《生と死の往還》というタイトルで書き込んでいるが、その二〇一〇年十月二十二日に公開した《生と死の往還?》で｛人間の死についての哲学｝という見出しの文章を書いた。　その中で、書架にある例の数冊からウラジミル・ジャンケレヴィッチの『死』を取り出して今のわたしになりに感応するところを取り出してみた。　上田三四二の『この世この生ー西行・良寛・明恵・道元ー』という愛読した名著がる。その中にある「花月西行」でもジャンケレヴィッチの『死』は、多く取り上げられている。　「花月西行」には、ひとつの死の哲学がある。　この作品は昭和五十五年五月「新潮」に掲載されたものだが、その冒頭で上田三四二はいきなり書いている。「ウラジミル・ジャンケレヴィッチの『死』。　白地のカバーに、不吉な黒の一字を浮かび上がらせた五百ページにおよぶ訳書（仲沢紀雄訳、みすず書房）を前に、呆然としている。　うまい言葉がみつからないまま、呆然などと言ってみたが、そこには、或るうとましさの思いもないわけではない。　なぜ、おぞましい死についてかくも雄弁に、時にはほとんど楽しげに、多くの言葉を費やさなければならないのか。そこで言葉は死の舞踏病を病んでいるかのようだ。死に対するこんなにも深い、嗜虐的なまでの心入れは、日常感覚にとってはなにか異様なもののように思われる」で始まる。　氏の透徹する思索と感性の歯車は、そこからまわりだす。　おぞましく、また、うとましいと感じながらも、それでも氏は実に新鮮な気持ちをもってこの本を読み解いていく。「ジャンケレヴィッチは死を三つの面から見ている。　一つは《死のこちら側》、すなわち生きている時間にとって死とは何かという問いである。　死ぬものだけが生きている。この当たり前すぎる事実には、真剣に生きようとするものにとって汲み尽くせないほどの含蓄がある。　いまひとつは《死の瞬間における死》。　ここでは死の刹那が問われる。一回きりの、やり直しのきかない、そして取り返しのつかない死というもの。　その最初にして最後の、体験を超えた体験の相が照らし出される。　最後に《死の向こう側側の死》である。　死のむこう側に、後世というものがあるのだろうか。それとも虚無だけがあるだけだろか。　後世というものはなく、虚無があるだけでもないとするのがジャンケレヴィッチであると思われる。　いや、死後は絶対の無だが、生きたという事実そのものが光芒を曳いて無の上に懸かっていると、彼はこの最後の章ばかりは楽しげどころか額に脂汗を滲ませながら、生のために、生にとっては絶対の不条理である死にむかって、つよく主張している」　上田三四二は、さらに推論を重ね次のように解釈している。　「ジャンケレヴィッチは、生と死、現世と死後の世界とのあいだに、あり得ないはずの連続性を回復しようとする。あり得ないはずの連続性であるから、むしろ相互呼応性とでも呼ぶ方がよいかもしれない。　彼はその連続性を、現世と死後とのあいだだけではなく、現世と生前とのあいだにも回復しようとする。　生前、生、死後ーーこのように連続しつつ、生にとって超自然的なものである生前と死後に挟まれた、現世の生というもの。　すると、この現世の生というものは、私たちが普通に考えているほど、自然的なもの、日常的なものではないのではないか。慣れによって平凡で自明なものと考えられているこの現実、この生は、思いのほか、超自然的なものの相を帯びているのではないか。　推論は充分に魅惑的であり、同時に戦慄的だ。　　『-----始まりと終わりの間に挟まれた連続は、始まりと終わりと同様に超自然的なものだ-----』（ジャンケレヴィッチ「死」第三部第四章）　両端の超自然的なものに挟まれた、それらとの連帯としての生は、日常的、自然的でありつつ、未生の闇、死後の闇を前後に持つゆえに、その日常性、自然性がそのまま神秘的であり超自然的なのである」と書いている。　</description>
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