「シ・マムタ水守り論壇」

水惑星・地球、その青い球体の海洋に浮かぶ日本列島。
その国土を守る水、その水を守る人々。
連なる山紫水明の島々の四季。その風土に育った固有の伝統。
なかでも、水と稲を奉る年中行事の守り手である農民たち。
自然と生活のリンクする、そのリサイクル・システムを守る者たち。
自然としての国土、文化としての風土を育て守ってきたのは、伝統的な家族経営農家群。
わたしたち瑞穂のくにの歴史は、
自然と共に呼吸しながら、生業としての「農」を営む小規模零細農家によってつくられて来ている。
その自負と矜持と、そこからの展望をこれからも共有したい。

2009年06月05日(金)

どうする、”出口なし”の世紀 [時評ー宇久]

   <第三の波>から<第五の波>


 そこは、そうあってはならないが、21世紀の初期にある今、まさに

世は”出口なし”の様相を呈している。

 人心の乱れと荒廃、自然生態系の乱れと環境破壊、末世的な破綻は地

上を覆っている。

 1200年代の鎌倉時代、人心の荒廃が日本仏教のかつてない興隆を

もたらせた。

 1930年代、世界大恐慌の嵐が巻き起こって世界経済社会を根底か

ら揺るがせた。

 いま、2010年代を直前にして、地球のあ温暖化現象、世界同時経

済危機が、この地上を席巻している。


 かつて、アルビン・トフラーは1980年に『第三の波』を発表し

た。その序論のまえに、「われらの大地」のカルロスの言葉が掲げられ

ている。

    われわれはここへ笑うためのやってきたのか

    それとも泣き叫ぶためなのだろうか

    われわれはいま死のうとしているのか

    それとも生まれ出ようとしているのだろうか


 ツフラーは書いている。

「本書のようにスケールの大きな統合的著述を試みに当たっては、単純化、一般化、それに要約ということが不可欠であった。その結果、本書は文明を農業段階の第一の波、産業革命の第二の波、それに現在始まりつつある第三の波という、わずか三段階に分けた」と。

この書で、第三の波は、人類がいまだ経験したことない大変革の進行を

指摘し、センセーションを巻き起こした。すでに市場という概念は、多

品種少量生産の要求によって変化を来たしており、従来のマーケティン

グ理論の終焉と、第三の波における新しい理念と人間像を求めた揺らぎ

の到来をも告げていた。

 わたしたちが置かれているのは、この第三の波の渦中に変わりはない

だろうが、現実はさらにいっそう深刻な環境と経済の危険水域に遭遇し

てしまったのに違いはない筈だ。


 今度は、アタリ氏の提起する「五つの波」である。

  五つの波とは、箇条書きに要約すれば

 @ アメリカ支配の崩壊  

   唯一の存在でなくなり、世界から撤退して、内向的になる。  
   それには20〜30年かかる。 
   どこかが特別な時代ではなくなる。

 A 多極型秩序    

   G7/G20などがあるが、次第にまとまらず、あたらなる世界統治が   求められ、金融危機の後に、協調の必要性が生ずる。
   超帝国・・・→超民主主義。   
   国家はグローバル市場に弱い。 市場原理は強い。

 B 超帝国
   
   グローバルな地球政府。   
   市場そのものが帝国(保険・警察・福祉・金融・教育・・・)。   今後はエンターテイメントが、世の中の暗さから目をそらす。
   人はテクノロジーに管理されてしまう。ある部分は監視も必要だ   が、監視の対象を物に限り、人への監視はしない。個人の情報に   及んではいけない。個人の自由は守られるべきだ。

 C超紛争

  エネルギー不足・武器の開発・海賊などに進む傾向がある。  
  この第4の波を防ぐには、今、私達がすべきことがある。
  ノマド・・・遊牧民族 
   @超ノマド:どこまでも自由に豊かに移動できる人々。
    現在5000万人、未来 では30億人。 
   A下層ノマド:生きるため国と国とを移動する人々。55億人。   Bバーチャルノマド:仮想世界に住む人々。

 D 第五の中で、超民主主義〜利他主義〜他人を援助すること。
   人を援助し、喜ばせる。
   2060年にむけてトランス・ヒューマン、
   他人の利益となる働き、新しいエリート、
   他人を愛する博愛の精神をもつ、グローバルな政府を築いていく   人々、
   チームスピリットこそ博愛。若者の団結。

  この波は、順番に押し寄せるのではなく、時に同時に起こり得る。


 1943年アルジェ生まれの現代の思想家ジャック・アタリは、さらに次

のように発言する。 

 「危機が今訪れたのは、私たちの想像よりずっと速く物事が進んでい ることを示している。それは、経済システムの均衡が大きく崩れてい たからだ。ただ、もしこの危機が予想通り10年後だったら、矛盾が蓄 積してもっと大変なことになっていた。今だから、まだましだったと いえる。
 危機の原因は、米国社会が中産階級に十分な賃金を与えられなかったことにある。
 彼らの負債がかさみ、借金を抱えたまま経済成長が続いたあげく、信用の喪失を招いた。
 ただ、これで米国が一気に坂を転げ落ちるとは思えない。というより、危機を乗り越えるのでないか。カギは、ドルが信頼を維持できるかどうかだ」。

 氏の著書である06年の『21世紀の歴史』では、今世紀の世界の行く末

を大胆に予言した。

 その中で、アタリ氏は、日本の核武装や国家の解体などの可能性を指

摘している。

「40年後、日本は人口が大きく減少し、世代構成が若返って均衡を保っているかも知れない。また、その間に労働人口が少ないことで機械化が進むかもしれない。しかし、その前に、大変困難な時期を過ごさなければならないだろう。
 それを避けるために、現在非常に低い一世帯あたりの子どもの数を増やす努力をするか、移民を入れるかの措置をとるべきだ。人口の構成を大胆に変えることだ」

という。


 確かに現在の大きな課題は、

 『グリーン・ニューディール:信用危機・気候変動・原油価格高騰の

三大危機を解決するための政策』だ。

 この政策構想は、地球温暖化、世界金融危機、石油資源枯渇に対する

一連の、金融と租税の再構築、および再生可能エネルギー資源に対する

積極的な財政出動を提言している。


 2008年7月21日にグリーン・ニューディール・グループが発表し、アメ

リカ大統領オバマが当選直後の2008年11月に打ち出したものである。

 1930年代に、当時の大統領ルーズベルトが公共投資によるニューディ

ール政策で大恐慌を乗り切ったのに習い、環境への投資で危機を打開し

たいというオバマが打ち出したのは道路やダムなどを造る従来型の公共

事業ではなく、脱温暖化ビジネスを広げていくことで環境と経済の両方

の危機を同時に克服していこうというものだ。

 脱温暖化投資は、太陽光発電や風力発電など再生可能エネルギーの拡

大、植物によるバイオ燃料の開発、家庭の電気コンセントから充電ので

きるプラグイン・ハイブリッド車の普及といった内容であり、エネルギ

ー分野だけで10年間に1500億ドル(約15兆円)の国費を投入してグリー

ン内需を拡大し、500万人の雇用を生み出すこと狙いとしている。

 現在の状況は、市場原理主義がリードした経済や金融システムが崩壊

しつつあるのであり、そのあり方を抜本的に見直す必要に迫られている

時期だ。

 歴史的に見れば、レーガン、サッチャー、そして現ブッシュ政権と続

いた市場原理主義は、絶えず公正さや環境保全に対して障害をきたし、

逆行する方向のなかで進んできたものであり、そこからの転換は不可欠

であり、オバマに期待される「グリーン・ニューディール」のもとでの

大きなチャンネルの切り替えと巨視的な変革だ。

 以上のような考え方が、先端的には定説に見なされている。 


 だが、わたしには、マネー資本主義という現代の怪物がその導火線に

なって、現実世界が、その魔界に席巻されているとしか見えない。

 その遠因をそのままにした新自由主義的経済対策、深淵の元凶を温存

して、さらに公的資金を巨大にエスカレートして投入するのは、逆コー

スであり、政策錯誤以外の何ものでもない、としか思えない。

 この現在に深淵に迷い込んで、行き先の見えない”出口なし”の状況

は如何に回避できるのか。


オバマ氏には、期待と可能性をある程度感じるが、この国の場合は、ち

ょっと違う。現下の政治に携わっている人に、総じて、横柄さと無責任

性があまりにも目につく。 さらに総じて汚染されている。

 環境も行政も一般社会も乱れてしまって、非行と犯罪が横行している

というのに、である。


先日(6月4日)、 新聞の社説に、

「飲食店の勘定書に、頼んでもいない料理の代金を紛れ込まされている
ようなものである」との下りがあった。

 国直轄公共事業負担金の名目で国交省分の人件費を地方が支払わされ

ていた件のことだ。一事が万事という。詐欺的行為をこともあろうに、

政府の機関ががやっているのだ。

 同日の社説には、また

「米軍による日本への核兵器の<持ち込み>に関する<米核密約>について、日本政府の内情が外務事務次官4人の証言で明らかになった」ことを論評している。
 そして
「日米の密約は核持ち込みだけの話ではない。1972年の沖縄返還協定をめぐる密約をめぐっては、米公文書が発見され、当時の外務省アメリカ局長も認めているのに、政府はかたくなに否定し続けている」ことを指摘していた。


 これらはほんの一例に過ぎない。

 およそ、一般社会では、それを犯罪的行為というのだ。

 それが、霞が関やワシントンハウスでは、日常茶飯事で罷り通って居

るとしか、私たちには見えない。公共性や外交特権などの衣をまとった

虚構であり、かつ詐欺的な、反倫理性が、そこでは平然として行われて

いる。かくして、今や総犯罪社会に転落しているのだ。

 特に国を代表する役職、総理など、霞が関の世渡り上手ではあろう

が、理念や先験的な哲学性は何ら感じ得ない。

 出口探しには、お寒いかぎりで、寂寞たる思いををどうしようもない

のである。



          梅雨の夕暮れ

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2009年04月14日(火)

現代における慧眼の士 [考察のフットプリント]

 すべてが今、偽物か、コピーのように映る。

 真実が遠のき、歪みと誇張の世界だ。


 人心の荒廃、国土の荒廃、環境の狂い、生態系の乱れ、経済の歪みが 現代性を象徴している。

 人心の荒廃は、鎌倉時代にもひどかった。

 だが、だからそこに日本仏教を興隆させた逸材が数多く生まれた。

 1930年代の世界大恐慌の時代、経済は破綻状態となった。

 自由放任の経済は、秩序と抑制の経済に舵を切り直した。


 今、そのような21世紀版の逸材が存在しているだろうか。

 野放図な市場原理を転換する経済再生のベクトルが示されているの 
 か。


 1934年に、20世紀を代表する哲学者ホワイトヘッドは、すでに

 「現代は崩壊の時代であり、おそらくは思想家たちも新しい時代にお ける自分たちの方向を見定めていません」

 と語っている。

 
 ところで私は、私たちの置かれている絶望的な状況を、すでに見通し ていた人はいた筈だ、と思って今改めて、その人の視点を探ってい 
 た。


 1980年『高い自己調整力をもつ日本経済』という論文で、第一回 石橋湛山賞を受賞し、変人経済学者と言われながらも、じつに予見的 で独自の見解をもっていた飯田経夫は、2002年『人間にとって経 済とは何か』(PHP研究所発行)のなかで、鋭い警告を発してい 
 る。

 「私はもはや経済学に絶望している」といい、そして、

 「私は、経済学はやがてなくなるのではないか、と予想している。そ して、それはそれでかまわないのではないか、と考えている」

 と書いた。


 飯田氏は、「人間の経済的営為とは難だろうか」という観点から、こ れまでを包括的に問い直している。

 それは「人類はその発生以来、ただちに生活の元手を稼いで<食って ゆく>必要の迫られた」。

 だが、やがてそれが、

 「いまや<食ってゆく>ための仕組みは巨大な怪物に化けて、<資本 主義>と呼ばれるようになった」


 そして、

 「産業革命が生み出した新文明のことを産業文明(ないし工業文明) と呼び、この文明が音を立てて全世界に浸透してゆくプロセスのこと を<産業化>と呼ぶ」

 その流れのなかで、

 「産業革命の担い手が、それを大好きになって、経済学と呼ばれる新 しい学問を生み出した。
  その教えは、人間を自由放任してカネ儲けを、やりたいようにやら せておくと、経済はいちばんうまくゆき、国は最もよく繁栄するだろ う、ということである」

 とした。

 この地点、

 「ここから始まった経済学の大きな流れは、その後の二百何十年間、 ほとんど何も変わっていない、といってよい」

 と、経済学の来歴を氏はふり返る。

 その視座から、

 「今後、<危機>の原因となりそうなのは、最近の資本主義の極端な までの<投機化><グローバル化>だろう。<アメリカ化>と入って もよい」

 と述べている。

 それが何を意味するのか、やはり、今日の<アメリカ化>発の危機の 実像が、その視座から見えるように思う。

 この慧眼の士は、

 「経済学は、いま袋小路に入っている」が、

 「いま私は、この環境問題を含めて、経済学をもっと人類社会の普遍 的な問題、あるいは、豊かになった時代における人生の意義や心の問 題にも対応できるような、それこそ豊かな学問として再構築してゆく 必要を強く感じている」

 と、氏は書き刻んでいる。

 そのような提言を残した。

 その翌年、慧眼の士である飯田経夫は逝去された。

 その提言を、現在において継ぐ人はいないか。

 それが、居るのである。


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渓谷の風景 (1590KB)


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2009年02月16日(月)

タオに還る方向 [考察のフットプリント]

 
 タオに還る道への方向転換

             

  理想の国家とは

  小国寡民

  小さな国土に、少ない人口

  山間にひそむ村落のようなものさ


  様々な文明の利器があるが

  そんなものはいらない


  使わなくても十分に幸福だからね

  他国に移動する気もおこらないから

  車や船や、そんな交通手段も無用

  他国と争わないから、武器も軍隊も無用

  衣食住は全て白給白足でね

  白分たちが作った食べものをおいしくいただ

  き、白分たちが編んだ衣服を美しく着こなし

  白分たちが建てた家で気持良く住み暮らす

  先祖伝来の習價やおまつりを楽しみながら

  静かにゆっくりと

  年老いてゆく

  どうかね、これがユートピアさ

  挑源郷というやつさ

  こんな所で暮らしたいと思わないかい…?      



 (『自由約 老子』新井満 2007年 朝日新聞社発行)



           ☆ ☆ 

           ☆ ☆

            ☆


          田園の時空


  
 昨年の暮れ農水省は「農村の伝統・文化に視点をおいた田園整備事業」を打ち出し、スタートさせた。
 そのなかに「田園空間博物館の整備」というのがある。
 事業内容には《伝統的農業施設及び美しい農村景観等の保全、復元等に配慮した各種生産基盤の整備》と書かれている。待たれた発想だ。
 田園への思いは、人さまざまだろう。が、その場合、よく見受けられるカラフルで奇を街うような、思いついて俄づくりというふうな施設。安っぽい疑似自然や唐突な建造物は作ってほしくない。
 時の然した自然こそ大切だ。
 田園とはもともと生の聖なる美空間なのである。
 その天然の調和、自然生態系の循環など、乱し犯してはならないものが厳然としてある。
 田園という言葉で、まず浮かぶのは田園隠逸の詩人、陶淵明だ。

  一帰りなんいざ 田園将に蕪れなんとす なんぞ帰らざる―  
で始まる「帰去来」。また「桃花源の記」と「桃花源の詩」。
 このふたつの作品に描かれた所謂「桃源郷」を石川忠久氏の訳文でつな
ぐとこうだ。

  土地は平らで広く、家屋はきちんと整って並び、よく肥えた田畑や
  きれいな池、桑や竹の類がある。
  あぜ道は縦横に通じ、鶏や犬の鴫きかわす声が聞こえる。
  その中を人々は行き来して、種をまいたり耕したりしている。
  白髪の老人もおさげ髪の子供も、だれもがなごやかなようすでそれ
  ぞれに楽しんでいる。里の村人たちはお互いに励まし合って耕作に
  つとめ、目が沈めば思い思いにわが家に帰る。
  桑や竹は広々とした木陰を作り、豆や黍はそれぞれふさわしい季節
  に植えられる。祭りや礼儀作法は昔のまま。衣服も新しい形式は作
  らない。子供たちは気の向くままに歩き回り歌をうたい、老人も心
  楽しく出歩いている。

 明治の終わりごろ、山崎延吉氏は「村は家の集塊である」といい、人格と家格で造られるという村格と、理想郷に向かっての「和協相助」の村風ということを説かれた。

 現下の《地域農業・集落営農》の理想的イメージとも相通じよう。
 そして浮かぶのは、やはり「農民芸術概論」の宮沢賢治である。

 《一つの地名である》という《イーハトーヴ》に田園の明日を見たい。

    そこでは、あらゆる事が可能である。
    人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅す
    る事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
    罪やかなしみでさえそこでは聖くきれいに輝いている。
    それはまことにあやしくも楽しい国土である。

と賢治は書いている。

 ここに陶淵明の「読山海経」にある次ぎの一節との呼応を感ずるのは私だけでないだろう。

   我が国中の薩を摘む  微風東より来たり 好風之と倶う
   俯仰して宇宙を終う  楽しまずして複た何如

        酒のさかなには自分の畑の野菜を摘む。こぬか雨が東
        の方から降り始め心地よい初夏の風もそよいできた。
        わずかの間に、限りない空間と時間とを見つくしたよう
        な心地になる。これを楽しまずしてどうしよう)
                        (同じく石川氏訳文)

 また賢治は「グスコーブドリの伝記」のなかで、オリザ(イーハトーヴ
語で稲のこと)をつくる田んぼを《沼ばたけ》と表現している。
 そこにはより天然に近い自然への思いが込められているのだ。

 もう十数年前になるが或る誌に「文化としての地域」と言う小文を草したことがある。
 そこで私は、地域空間の整備方向を・65381 ・現実深化論・65381 ・という造語で主張し
たものだ。
 田園時空。
 その時間的にも空間的にも、幾重にも交錯し合った深層的実在への透視を、やはり田園空間整備計画の前提としてあらためて望みたい。
 それはいまなお切実の感、ひとしおである。
           (1999年・平成11年7月1 61ヨ、高知新聞「所感・雑感」



          ☆   ☆


            ☆ 


 上記の私の書いた「田園の時空」が、その後の私の地域での活動の原点になった。

 自分の生まれ育った農業集落における「郷づくりプラン」や合併した新生農協の「ヒューマンライフJA」の経営理念づくり。食糧・農業・農村基本法(新基本法)下の地方自治体の中の農業委員会運営などにほぼ十年間没頭してきた。
 またこの間、地元自治体を核とする二つの市町村合併協議会(法定協議会)にも、かけもちして携わってきた。そんな公職から身を引いて数年を経た。

 一定の時を経て見えるものもある。
 それは、それぞれの関わった全体像のようなものである。
 それまでは、ややもすると部分に没頭するゆえに、それぞれの木はく見えても森という総体が見えない、複合する有機的な全体像を見失いがちになる、ということがあった。

 今、世界状況は、危機的である。一層展望なき世相が人々を覆っている。
 このとき、うえの言葉が、より強く私を照らしてくれるのである。

 そこからの、近代否定ではなく、「タオ」への方向転換を行う道筋を思うのである。


             2009年(平成21年)2月10日

             市川 和男



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2009年02月07日(土)

再生の道 [時評ー宇久]

  再生の道・第一 原点からの再生を 

 二十一世紀初頭にあって、巨大な金融危機、世界同時不況という時代がやってきた。
 規制緩和と金融工学のドッキングによって、異常に虚像的な金融を膨張させ、資産市場を拡大した結果が、金融資本主義の崩壊となり、それが現在の危機と不況を伴って世界を襲っている。それと同時に、世界の国々は、グローバル化のなかで、それぞれが自国の独自な文化を主張するという複雑で交錯した現代世界状況が作り出されてきた。このような状況の下で、アメリカの世紀は終わったという。
 アメリカ発は、何も金融危機のみではなく、あらゆる局面の危機でそう言い得るだろう。
 そんなとき、オバマ大統領の就任演説が、ワシントンで200万人を前に行われた。
 為政者は就任の初動期100日間が勝負だと言われる。期待は大きいほど、いつその反動に見舞われるかもしれない。それを踏まえてかオバマ演説の内容は、地味であった。建国の原点への心情的回帰とも受け取れるような再生を、混迷の渦中、静かに強く訴えた。「今日問われているのは、政府が大きいか小さいかではなく、政府が機能するかどうかだ。各家庭が適正な賃金の仕事を見つけ、費用負担ができる医療を手にして、尊厳ある退職後の生活を送る手助けができるかどうかだ。
 ――賢明に支出し、悪い慣習を改め、誰もが見守る中で仕事をしなければならない」
 私はオバマ演説を、そっくり日本の政府と政権与党に言葉の弾丸として発射したい。


  再生の道・第二 寡頭制からの脱却

 愚策の極みとしか言いようのない特別給付金付きの補正予算、支持率十パーセント台の内閣。雇用の瓦解、政治への不信と統治の機能不全への苛立ち、視界零の深刻な経済状況と受益のアンバランス、地域、医療、所得のなど格差とその拡大に対しる無策。これらが、わが国を覆ってしまい、行き先も定まらない。
 ここにきて、未だに金融資本主義の幻想にしがみつく行政能力不全の者たち、漢字の読み違い、目線の食い違いにも不感症な指導者、深刻な少年犯罪を横におき、政局だけを見ている国会の高額報酬受給者集団、この如何ともしがたい状況が重く圧し掛かっている。
 プラトンの『国家』では、一部の経済力と権力をもつ者に支配された寡頭制国家、独裁的専制国家ではなく、市民合議を図る民主制の国家建設の理想に邁進する哲人統治の必要を説いた。だが今や現代の議会制民主主義状況下、政府のリコール権の法規定が必要可決になっている。
 開拓の大地や遥かな山々にこだました美しい自由の国への高らかな建国の歌声。そのロマンを取り戻そうと訴え、混迷の渦中に新たな希望と力強い再生への道を指し示し、原点の倫理を説いたオバマ演説。今回の舞台はワシントンであり、現代民主主義大国であって、古代アテネ社会の小都市ではない。が、質的にはここにひとりの哲人政治家が出現したのかも知れないと何となく感じた。これを機に、世界の新たな時代が無謀な競争の時代から、正当な倫理の時代への再転換点になることを期待したい。

   前回改訂:「現代の哲人的政治家誕生か」 
      <再生と希望への道を求めて>(2009年01月24日ブログ)



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2009年02月06日(金)

再考「農的時空」 [時評ー宇久]

2008年11月09日(日)
農的世界像へのターニングとその意味 [考察のフットプリント]

 考察してみたいのは「農の世界」をどう見るかということである。

 そして、その「農的世界像」へのジャンプとターニング・ポイントだ。

 先ず、日本農業の現状についてみると、高度成長以前には、約80%の食料自給率であったものが、いまや世界の先進国のなかで最低になっていいる。

 カロリーベースでみると、1985年が52%、2005年には39%と四割を切ってしまっているのが実情だ。
 これは農業国でない国と比べても極めて低いレベルにある。

 人口1億人以上の国の穀類自給率では、日本は28%と最低である。

 日本では国内需要の72%、つまり7割を超える穀類の不足が生じていることになっている。

 この穀類自給率はちなみに、米国は138%、EUでは126%、パキスタンが104%、インドが100%となっている。

 我が国の穀類不足分は海外からの輸入に依存しているのだが、その輸入相手国を見ると、アメリカから30%、中国から12パーセント、オーストラリアから6%というように、主食の約半分がこれらの国に頼完全に外国依存型食生活なのである。食では、なさけない国だ。

 自給率の低下する現象は、耕作放棄地の増加と連動して進行する。
 1984年以降に、全国的な現象として耕作放棄がはじまってから、2005年に至り放棄地の面積は38万6千haも及んでしまった。
 農業集落は、存続の限界点にあるものが年々増加の一途だ。

 この一方で、世界的な穀類不足が急速に進行している。
 外国にもたれかかる国、独立自営の国が聞いてあきれる。

 今度は確実に世界的なレベルで食糧やエネルギーが不足し、その価格は高騰し続けるだろう。
 同時に、ハイテク製品や工業製品は過剰状態となり、やがて急速にその価格は低下してゆくことは間違いない。

 21世紀とは、これらの状況に加えて、さらに深刻な気候変動、異常気象,地殻の不安定、その他、社会的混乱、社会システムの崩壊ないし機能麻痺などが予測される。

 いわゆる成長の論理からすると、20世紀とはまるで逆現象の世紀が21世紀となるのだ。

 現下、猛威をふるっているアメリカ発世界金融危機が、あぶくの経済構造の終焉をつげている。

 その克服の可能性を、わたしは「農としての世界」に求めたい。

 農の具有する惑星的原理にもとずき、地域および地球システムの健康を回復することを切に望む。
 農という営みの超経済的な意味づけとそれにふさわしい地位を社会的に確定することよって、21世紀に病的に蔓延したカジノ資本主義的クライシスが克服されるのを待つのみである。


 「農的な世界像」を思うとき想起するのは、

 J・ラヴロックが『ガイアの時代』のなかで取り上げている「ブレイクのヴィジョン」だ。そこには次のようにある。

「ならば、われわれは何をなすべきか。未来のイギリスに関するわたしのヴィジョンは、この緑なす美しい土地にエルサレムを建設するというブレイクのそれに近い。
 そのためには、歩くかバスに乗るかすれば気軽に田園に行けるような大きさの、小規模で人口密度の高い都市を復活させねばなるまい。
 少なくとも三分の一の土地は、いま農民たちが遺棄地と呼ぶ自然な林地と荒れ地に返すべきだ。その一部は人びとのレクリエーション用に開放されるが、少なくとも六分の一は野生生物を手つかずに守る文字通りの「遺棄地」とする。
 農業は、集約的な農業生産がふさわしい場所ではそのようなやり方をし、あとは大地と調和して生きることを天職とする者たちのため小規模な自営農業を残して、その両立を図る」

 この構想の何と現代に対する警告的で、かつ今世紀にとってより示唆的であることか。


 ウイリアム・ブレイクに次の詩がある。

        一粒の砂に世界を

        一輪の野花に天界を見る

        一掌の中に無限を

        一時の中に永劫を握る


 この宇宙的視座から、農的な世界を見ることであろう。

 その視線からルドルフ・シュタイナーは「農業講座」のなかで言う。

「すなわちここで問題となっているのは、もっとも深い意味において一つの宇宙的・地球的問題なのです。
 今日人びとにまったく知られていない様ざまな力が、精神的霊的な世界からもたらされねばならないということを、じつは農業が明らかにしてくれています。
 これらの諸力は、ただたんに農業が少しばかり改良されるのに役立つというにとどまらず、人間の生命そのものが―人間は大地の生み出すものによって生きていくほかはないのですから―この地球の上で、物質的な意味においてもまた存在し続けることを可能にするという、重大な意義を持っています。  (中略)
 今日、私たちは理論と実践とをひき離してしまっています。今日の実践は、精神を持たず、単なる習慣的業務と堕しております。
 しかしながら、精神に由来するものは、もしそれが本当に霊的なるものから生じるかぎり、非実践的ではなくなります。このとき、霊的なるものは、本来的な意味において、もっとも実践的にるのです」

 このようなそれぞれの先達は、時代背景やその場の違いはあっても今日にとっていっそう予見的といえる見解を残されているのだ。

 ここに再び、2006年に発行された、素粒子物理学者・広瀬立成著『空海とアインシュタイン』のなかの言葉を引用させていただきたい。
 上記の著書の「はじめに」、 
「本書では、二十世紀最大の物理学者アインシュタインと、八世紀、真言密教の教祖であり偉大な思想家である空海が登場し、二人がつくりあげてきた宇宙観、すなわち、科学的宇宙論と宗教的宇宙観を紹介しつつ、宇宙のなかの人間の在り方を考察する。言うまでもなく、これはフィクションである。
 空海をアインシュタインに対比させたのは、空海が宇宙の根元を神・仏に求めるのではなく、宇宙を統べる法則にあると考え、それゆえ科学的宇宙観とのある種の対比が可能になったからである」
と述べられている。
 そのなかには次のようなところがある。

「科学は、人類が三十八億年という生物進化の産物であることを明らかにしています。
 生物があらわれる十億年前には地球が誕生し、その前には、百億年という宇宙の歴史が流れています。
 そのような科学的知見によれば、人間が宇宙百四十億年の産物であり、自然の一部であることは、だれの目にも明らかです。
 人間は他の生物、とりわけ植物に依存して生きるしか道はありません。
 人口増加による食糧難を緩和するために農業の振興をなからねばなりますまい。
 植物は、食糧となるばかりか、呼吸のための酸素の供給、保水など、人間に多くの恩恵をあたえています。
 無生物としての、土、水、鉱物などもまた、生物の存続に重要な役割を果たしています。地球上の生物と無生物のつながりが、人間の存続に不可欠であること、地球を脱出して人間だけで宇宙生活ができるかどうかを想像してみれば明らかです。
 それが絶対不可能であり、人間の基本的な生活条件、自然から与えられていることがわかります」と。(引用の強調標・筆者)

 

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Posted by ichikawa at 10時28分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

2009年01月24日(土)

現代の哲人的政治家誕生か [時評ー宇久]

 <再生と希望への道を求めて>

 21世紀初頭にあって、巨大な金融危機、世界同時不況という時代がやってきた。
 だがそれは、1990年代から金融工学の手法が採られるようになったことに端を発している。
 つまり、投資銀行、ヘッジファンド、プライベートエクイティファンドなどの金融機関が、信用創造を証券化という手段を行使して歯止めなく行ってきたことに由来するという。

 このような規制緩和と金融工学のドッキングによって、異常に虚像的な金融を野放図に膨張させ、資産市場を拡大した結果が、このような「金融資本主義の崩壊」となり、それが現在の危機と不況を伴って世界を襲っているのだ。

 一方、1989年にベルリンの壁の崩壊という世界史の転換点から、キリスト教に立脚する西欧文明と、それとまったく異質な世界観を抱くイスラム文明の対立が、世界を飲み込むように暴発した。

 それと同時に、世界の国々は、グローバル化のなかで、それぞれが自国の独自な文化を主張するという複雑で交錯した現代世界状況が作り出されてきたのである。

 このような状況の下で、
「アメリカの世紀は終わった」
「アメリカ資本主義は崩壊した」と言われるようになった。

 アメリカ発は、何も金融のみではなく、あらゆる局面で、そう言い得るだろう。

 そんなとき、オバマ大統領の就任演説が、09年1月20日(日本時間21日未明)、ワシントンで200万人を前に行われた。

 各紙の見出しは踊る。
「アメリカに変化がやってきた」
「どう果たす<責任>」
「米、単独主義から脱却」等々。

 この期待は、為政者就任の初動期100日間が勝負だと言われる。
 期待はいつその反動に見舞われるかもしれない。
 株価反応は冷静とも聞く。

 オバマ演説の内容は、地味であった。
 だが、しっかりした視点をもってアメリカの現状を捉え、その危機とその自覚の上に、だからこそ、国民に、世界に、果たすべきは新たな建設への<責任>だと、大胆に訴えた。

 選挙期間中のキャッチフレーズだった「変革」は影をひそめて、建国の原点への心情的回帰とも受け取れるような「再生」を、混迷の渦中、静かに強く訴えた。

 オバマ大統領は、
「この日、恐怖より希望を、いさかいや不和より目的を共有することを選び、ここに集まった」
と、就任の日を位置づけた。
 そして、
「この日、われわれは、あまりにも長い間、この国の政治を窒息させてきた卑小な恨み言や偽りの約束、非難の応酬や使い古されたドグマに終わりを告げる」
と宣言した。

 ここでふり返り、
「長く険しい道を、繁栄と自由に向け、われわれを導いてきたのは、
リスクを恐れない者、自ら実行する者、物づくりをする者であった」
との、認識と姿勢を明らかにした。

 さらに
「彼らは幾度となく、もがき、犠牲となり、その手が擦りむけるまで働いた。われわれがより良い人生を送れるようにと。
 彼らの目には、米国は個人の志の集まりよりも大きく、出自や貧富、帰属のあらゆる違いを超えた偉大なものと映った。
 われわれは今日もこの旅を続けている」
と、自らの人生に重なる統治者としての信念を語りかけた。

 彼は、そこから展望する。

「われわれの能力は衰えていない。しかしやり方を変えず、限られた利益を守り、嫌な決断を先送りする時代は確実に過ぎ去った」
と断定しながら、次のように言う。

 「長い間、われわれを消耗させた陳腐な政治議論はもはや通用しない。
 今日問われているのは、政府が大きいか小さいかではなく、政府が機能するかどうかだ。
 各家庭が適正な賃金の仕事を見つけ、費用負担ができる医療を手にして、尊厳ある退職後の生活を送る手助けができるかどうかだ。
 答えが”イエス”ならわれわれは前に進む。
 答えが”ノー”なら、その政策は終了する。
 国民のお金を管理するわれわれには説明責任がある。
 賢明に支出し、悪い慣習を改め、誰もが見守る中で仕事をしなければならない」

 このコラムの筆者である自分は、
 ここに引用したオバマ氏の言葉を、そっくり日本の政府と政権与党とやらに、直球で投げかけたい。
 雇用の瓦解、政治への不信と統治の機能不全への苛立ち、視界零の深刻な経済状況と受益のアンバランス、地域、医療、所得のなど格差とその拡大に対しる無策。これらが、わが国を覆ってしまい、行き先も定まらない。
 ここにきて、未だに金融資本主義の幻想にしがみつく行政能力不全の者たち、言葉遣いの誤りを犯し、目線の違いにも不感症な指導者、少年犯罪を横に見て政局だけを上目遣いに見ている国会の高額報酬受給者集団、この人たちに、この言葉の弾丸を発射したい。

 現在性の中に立って、オバマ氏はいう。

「問うべきは、市場が良いか悪いかではない。
 富を生み出し自由を拡大する市場の力は無類のものだ。
 しかしこの危機により、監視しなければ市場は制御不能になることも分かった。
 富める者だけをを優遇していては、国家の繁栄は長く続かないことが確認された」
と、これまでの市場原理主義的な政策の限界を指摘して、その軌道修正を明確に呼びかけている。

 識者の間では、今内外を問わずケインズが今見直されている様子である。そこに何を見出そうとするのか−−−。

 『ケインズ100の名言』(上智大核経済学部教授平井俊顕著)によれば、19世紀の後半は、ダーウィンやスペンサーの進化論が、改めて<自由放任>思想を強化する要因として機能した時期であったという。
 
 すなわち、すべての事物は、偶然性および混沌から競争による自然淘汰を通じて生じあものだという思想を現実に適用した時代であった。

 同書では、自由放任思想を根底で支えていた個人主義哲学、自然t的自由の思想、正統派経済学の思想潮流に対して、ケインズは根本的な異議申し立てをしたと書かれている。

 その観点から、資本主義社会は放任の状態におかれれば、個人の利益と社会の利益が調和的に実現するのだという、自由放任主義社会哲学のよって立つ前提そのもに重大な問題がある。
 
人間は啓蒙されてもいないし、無知で弱い存在である、との極めて現実的主義的な立場から、政府のなすべきこと、と、なすべからざることを区別し直す方向に依拠しながら、ケインズは自らの主張を展開した。

 このような区別を、いま改めて行うべきことを、オバマ氏は示唆しているとも受け取れるのではないだろうか。

 そして、
「イスラム世界に対しては、相互の利益と尊重に基づき前進する新たな道を希求する」
と、米国の「新たな平和の時代への先導者」たらんとする意気と多極的外交の進路を世界に発した。

 続いて、
 この就任演説の締めくくり段階に入り、国民の信念と決意について、注目すべきことを言った。

「堤防が決壊したときに見知らぬ人を受け入れる親切心、
 暗黒のときに友人が仕事を失うのを黙ってみているくらいなら、自らの労働時間を削る労働者の無私の精神。
 煙に包まれた階段を突進する消防士の勇気、そして子どもを育てる親の意志。
 これらこそが、最後にわれわれの運命を決定付けるのだ」
と。

 これはまさにアメリカ建国のころの瑞々しいヒューマニズム、まさにアメリカンドリームなのだ。

 開拓の大地や遥かな山々にこだました、美しい自由の国への高らかな建国の歌声。

 そのロマンを取り戻そうと訴え、混迷の渦中に新たな希望と力強い再生への道を指し示し、原点の倫理を説いたオバマ演説であった。


 だが、この道は遠く険しい。

「われわれの試練は新しいものかもしれない。
 それに立ち向かう手段も新しいものかもしれない。
 われわれの成功は、勤勉、誠実、勇気、フェアプレー、寛容、好奇心、忠誠心、そして愛国心といった価値観にかかっている。
 これは古くからあるものだが、真理である。
 これらの価値観は歴史を通じて、進歩をもたらす静かな力であり続けてきた。
 必要なのは、こうした真理に立ち返ることだ。
 今われわれに求められているのは、新たな責任の時代だ。
 すなわち、米国人一人一人が、自分自身やわれわれに国家、世界に対して責務を負っていることを認識することだ」
と−−。

 ともあれ、オバマ演説をここまで追ってきて、私は思う。
 
 世界に新しい思想家が誕生したのではないかと。

 その政治が成功するかどうかは、これからにかかる。

 いま、規模や視界、また拠とする立場は全く異なっていても、私は遠くプラトンを想起するのだ。

 今回の舞台はワシントンであり、古代のアテネではない。

 しかもこの国は、現代民主主義大国であり、古代社会の小都市ではない。

 が、質的には、ここにひとりの哲人政治家が出現したのかも知れない、と何となく感じた。

 私もまた、これを機に、
 世界の新たな時代が、無謀な競争の時代から、
 正当な倫理の時代への再転換点になることを期待したい。



 付記
 プラトンの考えた哲人統治について

 統治者には、
 支配の地位と富とをまず分離させて、私有財産を認めない。
 したがって、ここでは権力を持つということは富を失うことになる。
 統治者は家族を持つことも許さない。
 あくまで権力と富の合体を防ぎ、公私の混同を排除する。
 だから、ここでは、富や名誉を志向する者ではなく、魂を高め、知を求める哲学的資質を持つ者をのみ、統治者とする。
 そのような統治者によって、一部の経済力と権力をもつ者に支配された寡頭制国家、独裁的専制国家ではなく、市民合議を図る民主制の国家建設の理想に邁進する。

Posted by ichikawa at 16時35分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

2009年01月08日(木)

09年初頭雑感 [時評ー宇久]

「エコロジーの観点から赤字を生じている状態が続くならば、経済的には厳しい結果を招くことになるなるだろう。
 資源量が限界に行き着き、生態系が崩壊してしまうと、大規模なスタグフレーションの引き金を引くことになる可能性がある。
 投資の価格が下落する一方で、食糧とエネルギーの調達コストは急上昇する」
というのは、グローバル・フットプリント・ネットワークのマティースグル代表理事である。

 実はここまで書いたのは昨年の暮れであった。

 年末年始のなかで、この画面に向かうことが疎かになっていた。

 正月も八日の朝、庭の紅梅に蕾がふくらみかけている。

 昨年は「変」という年になったが、今年は何という年になるだろうか。

 金融証券の凶暴な嵐を引き起こしたグローバル化の危機。

 そこに立つ「今を問う声」は高い。

 この一月一日の新聞にも、次の一文が掲載されていた。

 「いま、どういう世界に住んでいるのだろうか。それは、政府の仕事は経済ではなく安全保障だという<小さな政府>と、<安全保障の政治>の時代の終わりではないか、と私は思う」

 という書き出しのコラム「未来への挑戦ー信じられる明日へー」(藤原帰一東大教授)だ。

 そこでは、米国の新自由主義政策が世界を席巻して規制緩和が進んだ結果、各国が自由市場に結びつけられ、深刻な世界金融危機を招いてしまった状況では、もはや<小さな政府>に展望はないことを指摘されている。
 その時流にあって、経済における政府の役割が縮小するのに反比例するのように、安全保障における政治の役割はかってなく拡大し、テロや大量破壊兵器、さらにはエネルギー、食糧などの安全に至るまでもが、安全保障の一部に組み込まれるというセキュリタイぜーションの政治になり、この政治が市民生活の安全を壊してしまったと論ずる。
 そして氏は
「すべてを自由競争に委ねてしまえば市場経済はギャンブルに近づいてしまう」ことに警告を発している。
 こうして氏は、
「新時代の政治とは、地に足のついた、原則よりはバランスを重視した実務の政治だろう」という問題を提起されている。

 ここにも、わたしはケインズの見直しを含め、新たな経済学構築への期待と待望を感じ取る。

 
 また、このような視点もある。

「イラク戦争から数年がたち、この戦争がほとんどアメリカの失策だったことが明らかになってきました。それにより<親米保守>は、ずいぶん信用を失墜しました。
 また<構造改革>が始まって十年以上がたち、小泉改革からも数年がたちました。そして今日、派遣、フリーター問題、所得格差拡大、都市と地方の格差、シャッター商店街、金融市場の不安定化、といった問題に日本は直面しています。
 これは明らかに構造改革によってもたらされたもので、構造改革が、日本社会に大きなひずみを与えたことは否定できません。
 そしてその構造改革の深刻な<負の遺産>を残して、小泉さんも政界から去ってしまいました。
 ことここに至っても、アメリカにつき従うのが日本にとって良いことだと本当に云えるでしょうか。
 そしてそれこそは、戦後日本の<保守派>が検討すべき最大の問題だったなずなのです。
 もっとはっきり言えば、もっぱら日米関係を重視するという戦後日本の<保守派>の立場は、本質的に大きな問題を孕んでいることに目を向けるべきなのです」
と、佐伯啓思京大教授は書かれている。

 今という日本の事態を明確に『自由と民主主義はもうやめる』(幻冬舎新書 2008年11月30日発行)のなかの一文である。

 そこでは、日本の近代化に抱いていた夏目漱石の危機感や日本的なものが崩壊してゆく状況のもとで萩原朔太郎がおそわれた喪失感。
 さらに西田幾多郎をはじめとする京都学派の<無>や<空>の思想、日本的な精神性<純粋さ>への志向などについて触れられている。

 ここにも、今への新たな思想を模索する強靱な精神の姿があった。

 21世紀は人類と地球惑星のクライシスとも言うべき時代であろう。

 私たちには、日本という精神風土への回帰を含め、地球的環境危機の回避に向かう、効率至上の機能主義ではない回路での、新たなる価値観とその時空での新しい哲学が求められていると思う。



 

Posted by ichikawa at 13時26分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

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