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		<title>「シ・マムタ水守り論壇」</title>
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		<description>水惑星・地球、その青い球体に浮かぶ日本列島。その国土を守る水、その水を守る百姓の会。</description>
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		<dc:date>2008-10-12T19:30:20+09:00</dc:date>
		
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		<title>新たなる座標軸を</title>
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		<description>　福田総理の腹切り戦略は、すでに功を奏した。　いまや前総理というべきだろう。彼の頭の中には自爆テロのような政局戦術があったし、現にあると思う。　麻生総理誕生は、むろん福田氏の掌のうちにあったはずだ。　元小泉総理に「あなたはうたれづよいから」と、閣僚に任命された現総理の麻生氏。　その麻生内閣の閣僚はほとんど、かつて小泉劇場のトリックドラマに踊った人たちだ。二番三番煎じの茶殻ばかりの感である。おおむね巷の評もそのようだ。　世襲制の政治家という職業化した人種、それにスポットを当てるテレビメディアの世論操作も犯罪的だ。　このところ、とみにNHKの政治番組も仕組まれたものという印象をいやでも感じるのは私だけではあるまい。　ところで、私は今回の組閣で閣僚名簿を自ら披露した麻生総理の演出を見て、新総理の現状認識の切り口に手慣れた明快さを見たが、同時に唐突ながら福田戦略の怖さも思った。　自民総裁選で小泉路線はすでに消え去っていた。　地域格差問題や競争至上主義の手法は潰えたのである。　そこに戦いの焦点を当てていた小沢一郎の戦略構図は、福田総理の辞任のとき、実は「勝負あった」のではないか。　麻生・小沢の対決ドラマの決着を、福田流の見通す視線にはすでに秘かに入れていたと私は思う。　　　　　　　　−−−−ーー　実は、昨日（９月２５日）ここまで書いていた。　折りしも今朝の新聞に、小泉氏の議員引退の記事が出ていた。　氏は、やはりその事態を感じ取る「直観の勝負師」であった。　　福田退陣の折、予感していたであろう麻生の出番、そして自民総裁選。それらは完全に、少なくとも小泉式政治手法の終焉を告げていた。　人にはそれぞれ異なった能力が備わっている。　たとえば、地を這うように見てゆく人、あるいはジャンプして見通す人、それの入り混じった人等々ーー。　その辺りを新聞から拾ってみる。　９月２５日には次の論評が掲載されていた。「麻生首相誕生の原動力になったのは、地方の自民党員の圧倒的な支持だった。景気対策のための積極的な財政出動を訴えた麻生氏に、かつての分配政治の再来を夢見たのかもしれない。　厳しい財政事情を踏まえれば、それがかなぬことを麻生氏自身が認識しているはずだ。　小沢民主党の政策を＜財源の裏付けがない＞と批判するだけでは物足りない。　統治システムの大転換を掲げる小沢氏に対し、麻生氏も新たなモデルの提示を迫られている。(中略）　政策を発信する力、遂行していく気迫と強い指導力はもちろんだが、それ以上に今、政治に求められているのは、地域への、国民一人一人の暮らしへの、温かいまなざしではないか」　（共同通信世事部長　橋詰　邦弘氏「真のドラマが始まった」から）　また９月２６日には、次の評論があった。「小泉氏は退陣からの二年間、沈黙を守ってきた。美学であり、自らを＜神話＞としようとしていたのかもしれない。しかし、今回の総裁選では小池百合子元防衛相を支持し、麻生太郎首相が大勝する結果となった。小池氏の敗北は小泉氏の敗北であり、もし、小池氏が勝利していたら、引退はなかったのではないか。−−」（政策研究大学院　大学準教授　本田雅俊氏「小泉引退は逃げ」から）　確かに小泉改革は、「米一俵」のアジテーションのなかで、数多くの企業倒産を引き起こしたし、またリストラなどのもとで、非正規労働者の急増、＜地方＞や＜高齢者＞などの経済的＜弱者＞に多大の痛みをもたらせ、金融再生プログラムは、格差拡大プログラムにしかなりえなかった。　小泉流構造改革路線の害悪は、「＜勝ち組＞や＜負け組＞という人の心を荒廃させる思想が流布した」（与謝野経済財政相）ことでも自明である。　小泉、安部、福田、麻生の、根底を同じくするこのような流れは、果たしてどこに行き着くのか。　アメリカに端を発した世界的な金融危機、世界経済の混迷は一段と深まっている。　金融界では「いまはシートベルトを締めるとき」だと言われているそうだ。　原油高と経済の混迷について　「現状は長期上昇相場の序盤戦。これから二幕、三幕、場合によって　四幕まであるかもしれない」　というのは丸紅経済研究所長の柴田明夫氏である。　同氏は、　その「背景には世界経済の構造変化がある」という。　そして「中国やインドなど人口大国が工業化して原油や食料の需要が急拡大した」ことを指摘して、　「人口大国が先進国になる過渡期の現象だが、これは二、三年では　終わらない。十五―二十年かかる」。　その間、「需要の押し上げ圧力」は一層強くなると予測する。　このことは、　「１９９０年代までの資源浪費型の経済構造は、もう耐えられないということだ」という。　ではどうすべきなのかについて、　「このような世界情勢で日本は何をすべきか。　食料面では、もはや主食のコメの生産調整を続けている場合ではない。水田農家の過半が七十歳以上。後継者がないまま急速に高齢化が進んでいる。拡大再生産に一刻も早く向かわないと日本も食料需給がひっ迫する。その時になって慌てても大増産しようとしても無理だ。　休耕せず飼料米やバイオマス燃料用作物を作って土壌の生産力を維持しながら、必要に応じて主食米に転換するような柔軟な対応が必要だ。　農家の高齢化を考えれば猶予は五年もない。　食料自給率４０％というのは異常。食料の調達環境が厳しくなっていく中で国民が安心できるためには、極めて困難な数字だが会社でいう安定株主の５１パーセントを目指すべきだ。　エネルギー面では、温暖化と安い資源の枯渇という二つの危機の進行を遅らせる以外にない。　そのためには世界全体が安い資源を前提とした産業構造から、高い資源に対応する高効率で省エネ型産業構造への転換を急がなければならない。――」という、柴田氏の発言に私は注目する。　先日行われた記者会見席上で、麻生総理の発言した異常気象など環境問題に触れた発言も、それを実現するには上記の様な産業構造への転換を断行するかどうかにかかっている。　なお、既定産業構造上での、「その道しかない」という微調整的処方箋ではなく、もっとできるだけ「根源からの出直し出発」するような大胆で積極的政治モデルを構築することが望まれる。　麻生か小沢かの選択も大切だが、切実の求められるのは、混乱末世の症候群的現象のなかでこその、しっかりした未来像であり、正常な新たな座標軸なのである。　　因みに、さらにいうなら、哲学を喪失した現代、政治基盤の液状化した世界のなかの現実の思想界において、いったいだれが「今世紀の親鸞」たり得るか、という問いが私にとっては最も大きな関心事なのである。　　　</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2008-09-26T22:33:46+09:00</dc:date>
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	<item rdf:about="http://suisyouu.com/blog2/index.php?ID=45">
		<title>新しいページを</title>
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		<description> 　自民党の総裁選の劇場化がまた始まった。　　マスコミもそれに乗っている。　　そこにあるのは、結局、政治の商業主義的スピリットだ。　それらは現行の矛盾に満ちた産業構造の上で演じられる、自己矛盾に目をつぶった政治的コマーシャリズムに過ぎない。　「先を見る眼」（福田総理の記者会見での言葉）に映じたものは何だったか。それは、政党内あるいは政党間レベルのやり取りだけではなかろう。　「私は自分を客観的に見ることができるんです。あたなとは違うんです」（同会見発言）という発言は報道関係者や世にいう識者には顰蹙を買い、批判の的になったが、私はそんなふうに短絡的には受け取らなかった。どうあろうとひとつの政治家の姿勢ではあると思う。　だが今、すべてを政局ドラマ化する総裁選は、むしろ腹立たしさを通り越して滑稽ですらある。　「超うれしいです。−−」この言葉に私は唖然とした。　まともな日本語ではない。　少なくても政権政党の総裁候補の使う言葉ではない。　誇張して強調する際に日常使用される「超」という言葉の濫発。　公党の総裁を望む日本人が、変な流行語を持ち出し、日本語を正しく使わないようではまったく話にならない。　一事が万事という。　格差社会、社会の歪み、人倫の乱れという、これまでにない害悪をもたらせた政治役者に媚を売る醜さが悪臭を放っているかのようだ。　今回の総裁候補の誰にいったい「先を見る目」はあるのだろうか。　本当に物事の本質が理解されているのだろうか。　　農の本質を見る哲学なしに「農」を薄っぺらに語ってほしくない。　　ともあれ、自説に酔うようでは「事態を客観的に捉える」ことを会得しているとは思われない。　いま、本当に必要なのは、自然と人間のかかわりの歴史を正すような「ページを新しくする」ことのできる人間だ、と私は思う。　　</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2008-09-13T15:05:00+09:00</dc:date>
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		<title>二十一世紀の課題とは</title>
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		<description>　 今夏、洞爺湖サミットという政治イベントがあった。　そのなかには、大きな自己矛盾があるのを私は感じていた。　そのときの議長談話での総括をみて、世界主要国の政治に、いっそうの絶望感をいだき、逆に自然科学者への期待感を新聞やブログに書いてきた。　それはかつての朝永振一郎たちのいう「科学者の社会的責について」であり、今では松井孝典氏の「レンタルの思想」であった。それとの関連でシュタイナーの「社会の三層化の理念」もあった。　つまり産業化とその根拠としての資本主義の問題を真正面から見据えること、その根源から出直す方向性について考えてきた。　地球上に長い時間をかけてつくられている人間圏は、いまや地球温暖化による危機にさらされている。　この人類史的危機脱出の方途を見出すことは、現今の喫緊の課題である。　加えて原油高騰に発する経済の一段と深い混迷のさなかで、政治は空転を続け、いろいろな抗議行動が起きている。　しかし、そこにも私は相反するものを感ずる。そのことが実際には実現不可能であり、その自己矛盾をどこかでなんとなく承知の上で行動しているように見える。　解剖学者である養老孟司氏は言う。　「でも二十世紀の経済を考えて欲しい。石油の需要が増えれば、その分石油を増産する。ひたすらそれをやってきた。そのため原油価格はおおむね一定してしていた。おかげで経済は右肩上がりだった。その経済を謳歌したのが、戦後の日本ではなかったか。そのために生じた問題は、二十一世紀に処理しなければならなくなった。環境問題とは、単にそのことに過ぎない。（中略）　現に（最近）のニュースでは、イカ釣り漁船が仕事にならないという。もうこんな仕事はヤメだと，猟師いう。冷たいようだが、それでいいのであろう。あれだけ煌煌と夜の海に漁火を焚き、まずイカがいなくならないはずがない。さらに原油高が加わったら、仕事にならないのは明白であろう。あれは二十一世紀の漁業ではない。　石油つまりエネルギー消費と、経済成長はほぼ完全に相関する。経済が三パーセント成長するということは、エネルギー消費が三パーセント増すということである。　政府やメディアは一方で景気対策をいい、他方で温暖化ガス削減を言う。そんなことがどうして可能なのか。　温暖化を防ごうとするなら、石油の消費を減らすしかない。それなら経済を減速するしかない。政治家がそれをいえるはずがないから、温暖化ガスの排出を削減することは、倫理の問題なのだと、政治家であるゴアはいった。政治家が倫理を説いたら、ウソだと思ったほうがいい。ウソで悪ければ、話のすり替えである。」　これは、藤原書店の月刊小冊子『機』（２００８　８　ＮＯ１９８）に掲載されている「モノと後藤新平」のなかの言葉である。　実に明快である。こうまで言い切るとは見事としか言いようがない。　話が飛ぶが、あれはもう三十年ほど前のことだ。　私は、そのとき自分の書いたある出版社からの依頼原稿を思い出している。　「地域の倫理とコミュニティ」―文化なき文明の淵に立って―という副題のついた文章である。　”わが里づくり”の理念と構想を述べながら、当時の外来資本による開発を批判し、自生の内発的発展への歩みを提唱したものであった。　その中で、私は論証なしの直感で、　「二十一世紀への狭き門は貧乏主義にしかない」と言って失笑を買ったことを書いた。　そして、さらに、　「その狭き門は農村にのみ開かれる。二十一世紀を農村の時代としなければ人類は滅びる」と訴えたものだ。　その直感を、以来「空間整備計画序説」や「構想計画」などで論証することになった。　思えば、端的なその視座で、これまでいろいろなことを書き、また発言を繰り返してきたような気がする。　原油高騰、それに連動する生産資材や飼料の高騰などによる生産コスト増、その状況をＪＡ高知中央会の会長は「本県農業の戦後最大の危機」と位置づけたという。先日開かれた農業危機突破高知県生産者大会の席上での発言である。　同連合会は大会前日の高知新聞に「高知県の農業がピンチです　高知県の農業を応援してください」という全面広告を出している。　そのなかに高知県の産物で出荷量が全国上位の品目一覧を載せていたが、その第一位を占めているのが、ナス、シシトウ、ミョウガ、ニラ、オクラ、ショウガ、文旦、ユズとなっている。　これを見てもあきらかなように、高知農業の主力は施設園芸である。　ここでは、高知県に対して、「施設園芸原油高騰緊急対策事業」の継続要請、国には生産コスト高騰を補てんする経営安定対策の確立、穀類への投機資金の世界的監視体制の構築などを求めている。　これらは当面する危機対策であり、農家の窮状打破の要求運動である。同じことは漁業にも起こっている。つまりは第一次産業の崩壊寸前の危機といえようか。　しかし、この時、私は長老発言の重みを思う。　二十一世紀の第一産業のあり方が、その根底から改めて問い直さなくてはならない、と思うのである。　養老孟司氏は、同誌で続ける。「人間が働いて稼ぎ出したものでなければ、社会の健全な基礎にはなりえない。石油を基礎にしたアメリカ文明は、ドル崩壊を心配されている。それはなにもアメリカだけの問題ではない。そのシステムのなかに、日本も中国も組み込まれている。それを訂正していくのが、二十一世紀の人類の課題なのである」と。　そのうえで、　「その＜健全なる生命＞の上に、社会が成り立つ。そこから後藤のいう自治が始まる。自治の原則を個人に戻せば、話は簡単である。」という。そこに後藤新平の書が載っている。　《　自治三訣　”人のお世話にならぬやう”　　　　　　　　　”人のお世話をするやう”　　　　　　　　　”そしてむくいをもとめぬやう”　新平》　「福祉国家とは、いったいなにか。三つの原則を国家に預けた国民に、どういう未来があるのか。後藤ならそういうに違いない。」と、養老孟司氏の舌鋒はだんだんと鋭く、現代性を突いてくる。　医師として出発した行政マン・後藤新平、解剖学者である思想家・養老孟司―。　　　今年、後藤新平のシンポジュウムが開催された。  後藤新平の「国家を超える」思想とは何か？　2008年の「後藤新平の会」シンポジウムでは、間もなく歿八十年を迎えようとしている後藤新平の「国家を超える」思想に注目してみたいとして、その意義を次のように述べている。　「人間を対象とした医師として出発しながら、台湾・満洲での経験を経て、国家規模の、さらには世界規模の視野を我がものとし、その後、国政に携わるなかでも、「世界の中の日本」の視点から、百年後の現在にも影響を及ぼす独自の政策を次々と打ち出した。また、そのような気宇壮大な構想を描く一方で、一人ひとりの「自治」に根ざした社会を実現するために最晩年まで命を削って東奔西走したのも、後藤の見過ごせない一面である。　グローバリゼーションの進展しつつある現在、われわれ人類は、国境の内からも外からも「国家」という存在を問い直さざるを得ない状況に直面している。そのとき、国境を越えた文明的視野と、「自治」に根ざした社会とを、共に重要なものとして説いていた後藤新平の思想から、われわれが学ぶべきものは計り知れない。」　このように現在も、というよりクライスの渦中にある現在ゆえ、より高く評価されている後藤新平である。　「いま後藤の説いたことを読み直してみると、あまりにも当然のことをいっているのに驚く。それと同時に、その当然のことがなぜ実現されないかに驚く。」と、養老孟司氏はいいながら、　「後藤新平以降の日本の近代史を考えると、後藤に生きていて欲しかったといつも思う。」と、言うのである。　実は、その驚きのわけと二十一世紀問題の答えは，氏の脳裏にはすでに充分用意されている、と私は思う。</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2008-08-25T00:27:01+09:00</dc:date>
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	<item rdf:about="http://suisyouu.com/blog2/index.php?ID=43">
		<title>北京オリンピックオープニングセレモニー</title>
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		<description>　壮大にして華麗。　中華民族１００年の夢だったこの日の喜びを思い切り鳥の巣に繰り広げた、北京オリンピックオープニングセレモニー。　９万人収容のスタジアム万人の観衆を前に、この国の数千年の歴史絵巻を演じた。その演出には、国力誇示の背景に、世界最古の文明発祥地のひとつとして、また老子以後２，５００年中国文化への高い誇りがあふれ出ていた。　チベット問題等政治的問題を抱えながらも、過去最多の世界２０４国参加のなかで開会式場に繰り広げられたものは、人海戦術による見事なコンピュータ・グラフチックのようであった。　巨大な規模とそれを統制する一糸の乱れも見せない規律の徹底。　だれる現代にあって、それはまことに対照的であった。　鮮やかな色彩に輝く古典的世界の象徴的かつ今日的表現、京劇、大曲の響きなど、放映されるそんな映像を見ながら、私は何か違った角度からの思いに駆られた。　１９７６年の天安門事件なども含め、中国大陸の苦難の足跡が想起された。ともあれ、この規模と統制の強いコントラストに感動もしたが、また驚愕を覚えた。わたしは、ふと、なぜか恐るべき新たな全体主義出現の危惧を密かに抱いたのも事実だ。</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2008-08-09T10:20:45+09:00</dc:date>
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	<item rdf:about="http://suisyouu.com/blog2/index.php?ID=42">
		<title>安心というものはー本末転倒のなかで</title>
		<link>http://suisyouu.com/blog2/index.php?ID=42</link>
		<description>　福田内閣改造人事が、行われた。　福田総理は、この内閣は「安心実現内閣」であり、その「政策実行型内閣」だという。　　「安心を増やす」とか「増やす安心」という言葉で、国民に語りかけている。　「五つの安心プラン」も改造直前に発表した。　その意図はわかるし、姿勢は穏やかでしっかりしているように見受けられる。だが、そのための布陣は、賞味期限の切れている陣容である。　ところで、安心というものは、そもそも増やせるものだろうか。　不安や危惧、あるいは杞憂、それらを解消し取り除くことをすれは、安心というものは、自然に生まれてくるものなのではないか。　つまり「安心」は結果である。　国民の目線で言えば、目に余る凶悪な犯罪の頻発や全体的な野放し物価高騰,異常気象の災禍など、目前の生活の困難性が痛感される日々である。　視線と目線の違いは、私流に言えば「視線」には精神的な方向性・長期的スパンと線形視座を感じる。一方、目線にはもっと現実的でワイドな面的視座の身近さをもつように感じている。　肝心なことは国民の目線に入る眼前の諸問題に、いかにして政治は真っ当に関わり得るのか。　それは、変化する現実への具体性のある機動的対応がまず必要である。　それに加え､むしろそれにもまして望まれるのは、諸問題の発生する元凶を摘出し、より本質的な抜本見直しの仮借なき追求である。　政治は、そんな目線に映ずるコトに対して率直な国会論議を行ってきたか。また行うのか、その論理の定立機能は麻痺してはいないか。　ちまたに溢れる「安心・安全」というキャッチフレーズのいかに虚しいことか。実際はその反対で、この言葉はもう余りにも空疎にうわずった響きしかない。　実態はその逆効果が生じ、蔓延している。　　政治的には安心や安全は、その対局にある不安を解消し、危惧を取り除くという行政の成果として国民が受け取るものである。　いうならば、それらが、本末転倒している。　これが、末世的世相の実態であると思う。　</description>
		<dc:creator>ichikawa</dc:creator>
		<dc:date>2008-08-02T15:52:00+09:00</dc:date>
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