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  放 て ば み て り ーー来し方への随想ーー







も く じ

その1、自在 境ー序にかえてー

その2、焦土の昔日

その3、桜の琴風亭

その4、スマトラ紀行

その5、四万十川蜃気楼ー宮内飛行場

その6、宮内の大日さま

 

 

                             

久松真一筆「人類の誓」

栞の下絵から

                                              もくじに帰る

 自在境へ の道 (序にかえて)



         
冬の星放ちて充つる灯かりかな   宇 久


 戦後の原点であり、また未来人のように現代を生きたと言われる作家・埴谷雄高氏が亡くなった。

 いうまでもなく氏のライフ・ワークは稀有の長編小説『死霊』である。

 時間と空間と引力の呪縛から解き放たれた死霊。

 三世に常住し、虚空を自由に往来する形而上的世界を描くことが、氏の畢生のテーマであった。


 カントからドストエフスキーへと大きく飛翔する彼は

 「宇宙も夢をみる」

 という。


 夢幻の世界の実在性を追求し、植物も鉱物も、つまりガイアすべてが夢をみていると感じ取る氏の感性は、日本文学の個別性と思索性の欠落を指摘する。

 ぎりぎりの実在の岸辺に立ち、社会革命から存在の革命への転換の道をただ一人独特に歩み続けたこの長編作家に、季節を重んずる世界最短の詩型である俳句は

如何に映じていたのだろうかーー。


 庭に目をやれば、香り立つ紅梅が蹲の水音を聞いている。


 ふと思う。

 今や時間と空間から完全に解放された氏は、果たして自己の作品をどのように評価しているのだろうかと。


 私は時間と空間は即「時空」ではないと思う。

 時間と空間、それは確かに身を削りとってゆく。

 が、そこから超出できるのは時空に身心を委ね切ることによってではないかと思う。

 
 時空・尽虚空に忘我し徹し切ったとき、時間・空間から超脱して自在の境の住人となる。

 良寛のキーワードは「任運騰々」であった。

 時空に任運するとき、雲のように自由なのである。

 現代の禅者といわれた真人久松真一は「殺仏殺祖」を説いた。

 彼もまた自在境への その道をひとり特異に歩み去っていった。

    
                                           (平成9年 土佐・杉の会「句会報」に寄せ記す)










    焦 土 の 昔 日                                                        もくじに帰る




 グラマンの後に民主々義がきた。

 この歳になってキザなことをいうつもりはないが、時計台はあの当時をそう見たにちがいない。

 時計台でのわれわれの戦中時代は、極く僅かであったが妙に鮮明な記憶がこびりついている。グラマンの弾をたびたび受けた校舎、その弾痕は今でも残っているだろう。

 空腹の軍事教練、校舎の屋上はシゴキ(シゴかれ)の場所でもあった。OO指導生というヤツにはよく殴られたものである。


 執揚な空襲、そして学徒疎開。

 私は親ひとり子ひとりの境遇だったため、母が炊事婦の役目を学校に申し出て疎開の一行に加わり、本山の奥のあの山の中までついてきてくれたことは忘れられない。

 疎開する時、大杉に向う汽車の中で、或るオンチャンが、


 「日本は負けたぞ!」

 と言った。

 「あれはスパイや」


 私たちは小声でそういって不安を慰め合った。と同時に戦争が終りほっとすることへの期待感も流れた。


 それが草深い真夏の疎開先で現実のものとなるまでにはなお時間を要した。


 
 やがて戦後。


 時計台の下に学生自治会(自治委員会)が生れた。

 戦争の重圧から解放され、民主々義を謳歌する多彩で絢欄たる時代の開幕であった。

 まるで人類の生命力が噴出したあの縄文の頃のように渦巻く何かがあった。

 自由と自治、平和と民主。それに向う大きな転換の〃うねり〃が焦土の上に起った。

 堰を切ったように学生運動が活発化し、弁論大会、演劇発表会、レコードコンサート、映画総見、文芸活動、校内新聞の発行、等々の

文化的な活動が急激な変化のなかで多様にかつ個性的に展開されたのもなつかしい。

 あれは、確かイメージとして或る秋の日の午後だったように思うが、文学者片山敏彦先生が校長室を訪れたことがあった。

 その折、銀髪の氏は、私たちに見事な美しいリズムで詩を朗読された。さわやかな想い出のひとつである。

 想い出は美しいというが、そんな感傷を差し引いてもその頃は最も詩的であり、なおかつ哲学的な時代であったといえるかもしれない。


 それまでの価値観が殆んど完全に崩壊し、自分自身で自己の価値体系を探り、定めなければ今日を生きてゆく方向がつかめなかったからだ。

 その意味では、逆説的ではあるが極めて内的に充実した環境のなかにあったといって良いだろう。


 ランボーに愚かれて身を焦し、教師を殴って退学した友もいた。



         ふしぎだ 霧のなかをあるいているとーー



 あのヘッセの詩の朗読がイヤにうまい飄々としたのもいた。



 月を眺めながら、ついに太陽の昇るまで、ダベリ明した下宿の縁側、


 「祈りやねや」

 そういってかざした焼酎のコップ。



 当時、学生の間に流行った「赤石栄」という名もなつかしい。

 土佐教会には大山牧師がおられた。


 氏はよくドストエフスキーを引用して話された。

 実に鋭くしかも温もりのあるひとであった。

 その説教は、常にその時その時で完結するまるで交響曲のようであったことを、今や、かすんだ遠い日々のなかでも、これだけは鮮やかに覚えている。

私は密かに、直接、内面的に最も深い影響を頂いた方である。

 いつでもアウトサイダーである私は、クリスチャンにはならなかったが、大山牧師の説教をベートーベンのようだ、と思って聞き入ったものだ。

 「感受性の方程式」を創ると傲慢にも言い、それを追い求めつづけて、焼跡の市内の本屋をほっつき歩き、疲れて貧血を起した快感ー。

 あの当時、高知市内に七軒ほどあった古本屋漁りには、まる一日を要したものだ。


 メシ代を、授業とは関係ない本代にまわして溜め込んだ本。

 自我の膨張と青春の情感に焦げた本。


 それらが、わが家の書庫に、今でも山積みされて眠っている。
 
 葛のからみ歴史の積った講堂、その講堂との出合いは先ず入学試験の時だった。

 舞台裏の部屋に順番で行き、歌をうたわされるのである。歌といえば、腹痛を催すほどの苦手中の苦手、汗をかいてやっとパス。

 この講堂には色々な想い出が詰っているが、特に想い出すのは弁論大会。

 私も何回か物好きで出たものである。そこで或る時私は、


 「人間は考える葦であるとパスカルはいった。戦後民主々義の時代を迎え・・」

 とやり始めた。いいたかったのは、描れ動く社会のなかで、自分自身の哲学を持とうということだったように思う。

 音吐朗々と述べる何人かの先輩、同僚たちに混って堂々と(?)壇上に上って、まあよく思い切ってやったものだと、今こう書きながらもそう思う。



 ところでパスカルといえば反射的にデカルトを連想する。

 哲学者・梅原猛氏によれば、〃デカルトは近代文明の原理の提供者〃であり、今われわれは、〃デカルト原理にデカルト的懐疑〃を向けなくてはならないという。



 神々は死んだという近代社会、動植物の種が激減している現代の世界。

 そこで、主役を演じている科学技術文明は、いったい死滅の方向に動いているのか、それとも生存の方向に動いているのか。



 近代文明に向って使徒ペテロではないが〃クオーバディス〃と問わざるを得ないと、氏は述べている。



 おそらく、この問いかけは〃動物を自動機械にすぎないと考えたデカルト〃の思想を起点とする「近代」の超克となるのではないか。

 少なくともデカルトが否定した〃われら人間をも生物の一員としてとる立場〃を、明日に向かって回復させなければなるまい。

 パスカルは、ルネ・デカルトを生の哲学の立場から最初に断罪したのではなかったか。

 わたしたちは無限をおそれないデカルトの直線的・二元論的進歩主義思考の荒さよりも、無限におののくパスカルの直感的・綜合的モラリズム思考の繊細さをえらびたい。


 再び、ここに民主主義が足もとから問い直されており、また、平和の間題が深刻な課題として、わたしたちを重くとりまいている。

 「地域」に「近代の深淵」が顔をのぞかせ、人類史上初の「第三の波」といわれる文明状況がひたひたと押し寄せている現在ほど、

「生命」と「生存」の哲学が求められていることはないのかも知れない。そして人間は天動の世界に生きていることを忘れてはなるまい。



 窪川町に住む私は、原発問題に捕れるなかにあって、地域をも生物体としてとらえ、土と光と水の文化を再創造する運動の必要性を痛感している。

 まさに、自然と共生する人間的文明の復興という〃現代ルネサンス〃の時代ではないか。そんなに思うことしきりである。

 かつては、〃青春は倫理に身をやつすことだ〃と、よくいわれたものだ。



 それにしても、私は、もう、天命を知らねばならない歳になっても、まだ、不惑にまでもなっていない。

 パスカル、ベルグソン、そんなあたりに次代の文明を創造する鍵があるのではないだろうか、などと未だ惑うこと盛んである。



 あれから三十数ケ年。

 依然として考えのまことに成長していないのに、自分ながら感心せざるを得ない。
 
 修養の足りないせいか、幼児性は白髪と小雛のなかに未だ健在である。



 「名刺は、異動の度につくり変えるのも面倒やき、、《生涯求道者》とだけ入れるきねや」

 夕飯時にそう言うと

 「あほくさ!」

 まことに、あっさりと、女房に一蹴された前科がある。

 この度は、催促のきつい電話で、仕方なく駄文を綴る羽目とはなったが、どうやら「書くとは恥をかく」ことであったようだ。



                              旧制高知県立高知城東中学校「はたち会」同窓会

                                                同窓会10周年記念『はたち会』(昭和57年12月1日発行)寄稿文


                                                  後日談

                                                  同窓の年賀にこうあった。

                                                  「おんしゃ、まだ、哲学やりゆうかや」

                                                  いい年して、げに、まっことねやー。 −けんど、まあ、そう言うな。












    


      桜 の 琴 風 亭                                                     もくじに帰る


 雨のない、花冷えの続いた、今年の桜花は長命だった。

 そんな或る土曜日の昼下がり、仁淀川沿いの高台にある数寄屋風の家に、その地の図書館長の首唱で、長らく交流のあった県内の図書館関係者数人が集った。

 やがて、桜のもとの饗宴になった。

 舞い散る桜の花には、何か不思議な気が漂っている。 

 人にもそれぞれの宇宙がある。

 それぞれの宇宙(コスモロジー)があって、それが映っているのであろうか。それぞれに、それぞれの宇宙(宇=空間、宙=時間)が映っているといってもいいのかも知れない。

 親しい語らいのなかに、透明な時が流れ、重ねる杯が、次第に図書館論の花を咲かせた。

 図書館歴の先輩たちに囲まれて私も、図書館への思いがつのる。

 ーー
 図書館は決して建物ではない。それも必要ではあるが、それ以上に本と人を結び、その人と人を結ぶ結節点としての役割が大切だ。

 そこには、静かなオープンスペースがあり、ゆったりとした時間が保たれ、住民の知る権利を保障する情報ネットワークが張り巡らされていなくてはならない。

 絶えず営まれる開放的な相互学習の場が確保されていて、人数に拘らない自由な雰囲気で運営される。

 それらの、住民に完全に開かれた図書館文化活動のカリキュラムによって、三々五々に集まってくる人達は、多彩な顔触れで、思い思いの部屋に入って行く。

 図書館は、そんな地域の文化と情報の拠点基地に成長することだ。そこは、それ自体が、何かの手段ではなく、すでに或る目的ともなるような、トータルな世界でありたい。

 だがーー。

 それにしても、現状には苛酷な壁がある。

 県下市町村の住民意識や文化と情報の需要には、さほどの違いはないのに、その供給体制には大きな隔たりがある。特に図書館のおかれている自治体行政のなかの

位置は一般的に極めて低いのが現状だ。

 図書館に対する使命感が強いほど予算的にも人員的にも苦しんでいる。 行政執行当局と図書館との間には文化に対する感覚と意識の時差ともいえるものがある。 

 この落差を埋めることが今もっとも必要になっている。

 現代がよりグローバルな情報化社会に向かって進展しており、また、これまでの生活が改めて問い直され、まるで豊かな植生のように、精神的な多様性が求められている

からだ。

 人類の貴い遺産を身近くし、変化する時代の要請に答え得る図書館像を追求するためにも、この現状を打開して、文化行政に対する予算構造の改善を図り、図書館

の行政上の地位を向上させなければならない。

 その道は、ひとつには当面県下の図書館人の連帯した合力を発揮することではないだろうか。

 これは、この日集まった面々の共通した気持ちだったように思う。
 
 私もまたこの日のように、共通の問題意識で絶えず集い合い連帯して欲しいと思った。

 各地の図書館活動が一つの巨きな方向性のもとに、相互に協力して一層のレベルアップを図られるよう望みたい。

 やがて素晴らしいネットワークシステムによって、県下の図書館界が有機的に結ばれた心の広場となるようにーー。

 こんな、 色々な思いが、桜の花びらのように舞う。

 走馬灯のように、幾重にもなった思いが通り過ぎる。

 いつのまにかーーー

 次のような境地に至る。


               觴酌 行次を失う    

                覚えず 我有るを知るを

                安くんぞ物を貴しと為すを知らんや     

               悠々 留まる所に迷う

                酒中に深味あり          (陶淵明「飲酒」)


 本当によき人たちとの、時の止まったような、桜日和の宴のひとときであった。

 時は平成5年4月10日。

 これもまた、窪川での、私の定年退職記念の会を開いてくれた四月六日と共に、生涯忘れ得ぬ、有り難き事々である。

         
                                                     定年退職記念誌『光り降る音』(平成5年6月発行)より











 


  ス マ ト ラ 紀 行ーー
フォーラス(神の祝福をあなたに)ーー                          もくじに帰る


     ◆ ◆ ◆

 
 平成7年。定年退職して2年目の夏のことである。

 「インドネシヤに旅行してみないか」

 突如そんな電話があった。

 
 高知市内の或る病院の院長N先輩からである。

 旅行に自信のない身ながら、医者と一緒ならと妻のすすめもあり一行四人の一人になった。

 N先輩の親戚であるかっての軍人さんが、戦後もインドネシヤに止まり、その地の酋長の娘さんと結婚していたが、その方の墓参を兼ねてのスマトラ見学である。

 
 夕暮れの雨のシンガポールに1泊。

 翌日、初めて降り立ったメダンは、何か騒々しく、なぜか戦争の臭いを感じ、敗戦直後の日本が連想された。 


 北スマトラに現地人の案内で車で走る。

 車窓からカンナの深紅が目に染みた。

     
火輪下に椰子の木陰やカンナ燃ゆ

赤道の被さる椰子の葉擦れかな


 椰子の林に裸足の少年が顔を見せた。ドッキとするほど澄んだ目である。その表情は思わず涙ぐむほど清浄で、懐かしい気がした。
 

無垢の目に真夏のひかり輝けり


 車は北部へ走る。

 忽然と、トバ湖が姿を見せた。

 透明なルビー色の湖面に濃い樹影が映える。

 花が濃く赤い。まさに原色の世界だ。

 湖畔のホテル。夕立があった。蕭条の雨は時を流している。
 

    
夕暮れて雨のトバ湖は風涼し


 赤道直下にありながら、標高900bの地で比較的涼しい。

 450bの水深の湖は不気味にしずかだ。

 湖面に漂う浮草が目についた。 


    
浮草や火輪真下に湖は碧し


 翌朝、そこに浮かぶサモシール島を訪ねる。

 赤道間近。怪しき孤島だ。

 太陽に祈るトバ・バタック族の結婚式祝賀の民族舞踊。

 それはやや観光的になっているとはいえ、宇宙的ないのちのリズムが顕わになっているように感じた。


     
太陽に祈る踊りやトバの民


 トバ湖を後に、標高1500bの高台にある展望台会館に着いた。

 生姜ティに疲れを癒す。

 小雨のフマタン・プルバで王様の住居跡を見て、トンギンに向かう。
 
 やがて一行は、そこで北スマトラ最大の瀧を前にした。緩やかに曲線を描く稜線が延び、眼下には神秘的なトバの湖面が遥かに見える。

 壮大というより遠大な感の眺望は絶佳であった。
  

     ◆ ◆ ◆


 弥生式住居を思わせる床高舟形住居の保存地区カンポン・リンガ村に立ち寄った。
 
 水牛の角の形をした棟の両端、家のしとみにはヤモリの絵が書かれている。

 薄暗い床高の内部。

 そこに現に今も原住民が国か自治体に生活が保障されて住んでいると聞いた。が、観光客に対する顔の表情の裏側が少し気になった。

 薄暗い部屋のなかに置いてあった、南瓜か瓢箪をくりぬいた鳥の形をした入れ物、LAB(ラブ)があった。

 現地人の頼んで売って貰った。

 そこを出て森林公園に立ち寄る。初めて象に乗って森を散策する。
 
 道すがら、大蝙蝠や恥ずかしがり屋のプカン(ネコ科)、山猫などの見世物小屋にホットする。

 車道の所々にドリアン、ナンブータン、カッサバなど果物の露店が立ち並んでいた。

 道端が一種のショッピング・ラインになっているのも、以前の日本だ。昭和二十年代前期が連想された。



 再びメダン。

 そこから空路でジャワ島ジョグ・ジャカルタ空港へー。



 世界有数の巡礼の聖地ボロブドールがそこにある。

 巡礼の旅人はボロブドール寺院の回廊を十周して悟りの境地を次第に昇る。

 最上段は形のない世界、つまり「無形(ムギョウ)の世界」を顕しているという。
 
 灼ける空のもとの静寂な安らぎの仏空間である。


    
空灼けて無形の世界仏遺跡


 そこからやがて人々は、再び世俗の世界に降りてくるのである。

 ただここに来る前とは違う眼差しをもって。

この旅行から時は夢のごとく流れた。 

 この時のN先輩はもうこの世にはいない。

 ボロブドールの最上段のような、あの「無形の世界」にいるのかも知れない。

 それともジョグ・ジャカルタでの繊細優美なラーマヤナ物語の踊り、その美女たちを今も見ているのか。
 
 それぞれの脳の鏡に映る越し方ではある。


  ◆ ◆ ◆



 トバの湖畔で、大きな立て看板に「HOLASU」(フォーラス)と書かれているのを見た。

 親しき人への挨拶の言葉で「神の祝福を、あなたに」の意である。

 フォーラス。

この言葉を贈る日が、およそ四ヶ年を経て訪れた。

 最近行われた故N先輩の令嬢の国際結婚カナダ式披露宴の時である。

 カナダの新郎の、日本でいえば婿伽にあたる友人が3名、嫁伽は日本の花嫁の友人が同じく3名で、来客を前にその八名がずらりと並んだ。

 一際鮮やかに、ときに強くはげしく、時にしみ入るように静かに、しんしんと心の底に迫る尺八の音ー。
 
 祝賀のセレモニーは、新郎と同国の友人が奏するその尺八で始まった。

 いのちを讃える喜び、波のような調べに、祝賀の宴は快く引き締まっていた。

 宴は進み、ホテルの広い会場はまるで芝生のなかのような、くつろぎの場となった。

 フィナーレは、結ばれた二人を中心に、両国のご両親、親しき友人・知人たちのまさに国際ダンス・パーチィである。

 粋だった先輩の喜びが見えるようだ。

 異文化交流のなかでこそ、確かなアイデンティティを見出すことができる。

 あのスマトラ旅行の時もそうだったが、今は遠くに失われている日本のよさを思わざるを得ない。

 でなければ日本からの自己発信は出来まい。

 カナダ人の新郎は、日本のなかでも特に高知の自然や人情がいいと言ったそうだ。

 そう聞くにつれ、彼らを含め若い人たちに、自然に恵まれた島・四国のエレガンスな個性を新たな世紀にしっかり繋いでいってほしいと思った。



 太陽直下のサモシール島が、祈りの島であり、またボロブドール遺跡のあるジャワ島が、巡礼の島であったように、四国の島もまた、祈りの島・巡礼の島なのである。


     ◆ ◆ ◆


 あの海外旅行から、もう四年になろうとしている。

 矢のごとく、夢のごとくでもある。

 1行4名の旅であった。その時の先輩はもういない。

 赤道直下の八月であったが、思ったほど暑くはなかった。

 わたしには日本を外から見ることの出来た旅であった。

 日本で失われたものを見る旅であった。親の仕事を手伝う子供たちの澄んだ目や無垢な表情が今なお印象的だ。

 トバ湖の深い静けさ。サモシール島の太陽信仰。

 いのちのリズムが、そこにはベールに覆い隠されていなかった。

 とは言え、近代化の波はここにも確実に押し寄せていた。時折見せる住民の顔の裏側にその影響があった。   

 それにしても、繊細優美なラーマヤナ物語りの踊りには、ぞっこん魅せられた。

 また、神秘的な焼ける空のもとのボロブドールの仏遺跡ーー。

 遠くにいったもの、失われたもの。

 超し方は、どこか美しく脳に刻まれているものだ。

 この時、カンポン・リンガ村で求めた瓢箪のような置物「ラブ」(LAB)が、この旅の思い出を、今に書斎の片隅でそっと語りかけている。
       

                                                                      (平成11年6月草す 市川 和男)













  四万十川蜃気楼 
ー 宮 内 飛 行 場 ー
                                                 
もくじに帰る



 四国西南の雨量豊かな山野を大きく逆S字形に蛇行しながら土佐湾に至る四万十川。

 古代の香る縄文遺跡があり、また民俗的な弥生の源郷を今なお思わせるこの里の清き流れ。

 近年この川は、全国的な環境汚染に相対して、日本最後の清流と呼ばれている。

 その中上流域に開けた台地にある窪川町は一名「霧の町」とも言い、朝夕立ち込める霧は濃く深い。

 標高二百三十bの盆地状の高原である。

 私の住んでいる墳墓の地は、窪川町の穀倉地帯を縫って流れる四万十川のほとりにある。

 ここは「宮内」という集落名の、今に純然たる〃農のムラ〃である。

 その昔「朝霧」という呼称もあった。



     ◆ ◆ ◆



 そこに、まるで忽然と「海軍宮内飛行場」がつくられた。

 敗色濃い昭和二十年の春のことである。

 もう半世紀ほども前になるので、記憶にはぼんやりではあるが、私の家の前の田圃に、五、六名の見慣れない人達がきて、何やら立ち話をしていたのが、

当時十二才の少年の私には何やら不安げに映ったことを覚えている。

 そのうち、測量の偵察機が飛んだとも聞いたものである。

 やがて飛行場は、近郷近在の人々を強制動員してつくられた。

 狩り出された人々は毎日自分の仕事を休み、いも飯弁当持参で朝から晩まで汗水たらしての作業。

 鍬をふるいモッコを担いで土地をならし、砂利を撒きそれをみんなでローラーを引いて固める重労働の繰り返し。

 使う土地は、先祖から受け継いだ大切な田もあったものではない。

 こうして、にわかに蟻がたかったような人海戦術で、飛行場はその姿を穏やかな宮内の里に表した。
 
 長さ一二八〇bに、幅一五〇bの滑走路。それに裏山からの三本の長い誘導路。

 その裏山に横穴を掘り込んだ格納庫代わりの掩体壕が掘られた。

 川沿いに上、下、と横に長い部落の出入り口には、検問所が設けられた。

 そこには衛兵がいて宮内の住民も通関札を見せなくては通行できなくなった。

 四軒の民家が接収され、隊員の分宿する兵舎と飛行隊の本部になった。


 そこに、海軍の機上作業練習機「白菊」という単葉のオール金属製の飛行機が二、三十機集結したのである。

 こうして特攻隊員と整備員で150名から200名を擁する飛行場ができた。

 それは通称「丸岡隊」と呼ばれていた。


 その年、小学校を卒業した私は,高知市の或る旧制中学校に入学していた。

 下宿して間もない土日の帰郷だったと思うが、帰ってみて驚いた。

 わが家の前の水田は、帯状に「木走路」といって小さな丸太木をシュロ縄で編んで簾のように敷いた即席の滑走路にすっかり姿を変えていたのである。

加えて私の家も飛行場の本部になった。

 母一人子一人であった私たち親子は、家を追われ、仕方なく隣部落の親戚に身を寄せた。

 それからというもの、わが家に帰るにもそこに駐屯している番兵に軍隊式の敬礼をして 

「入ってよろしいですか」

と聞けという。

 私の母は

「家の監督に来た。自分の家に入るのに、そんなことは必要はない」

と言い切った。


 話は変わるが、母は、農業の傍ら、種々の社会活動を行った。

 戦時中には国防婦人会にも参加したが、戦後には農協婦人部の高知県連絡協議会の会長、全国農協婦人部協議会の監事を始め、窪川町青欄会の会長その他

諸々の社会活動に、八十八歳の生涯を終わるまでその身を捧げた。中々の女傑と言われただけあって負けてはいなかった。



 兵隊さんはよく青竹のバッターで腰をしたたか打たれていたのも印象的である。

「かまえ!」

 この命令で、殴られる方は「く」の字に腰を曲げ、上官がそれをめがけて青竹も割れんばかりに叩く。

 兵隊さんは前につんのめっていた。

 こんなこともあった。


 ある将校の兵隊いじめに腹を据えかねた江戸っ子の下士官だったと思うが、やにわに日本刀の鞘を払って

「おれが、ぶったぎってやる!」

 と立ち上がり、ようやく仲間が取り押さえ、なだめていたのが今も目の底に焼き付いている。



 思えば駐屯していた兵隊さんは皆若い人達だった。

 青春をこの草深い檻なき檻の土地で持て余してもいたようだった。




     ◆ ◆ ◆




 度重なる高知市内の空襲を逃れ、学徒の集団疎開が行われた。

 私たちの疎開先である高知県嶺北の山間(本山の奥)にまで母は来てくれていた。

 その山深い谷合の森の中の、確か神社だったと思うが、そこに私たちは集められ正式に日本が負けたことを告げられた。



 敗戦。

 それは、感受性の暴風期にいた私たちにとって、人生の大いなる価値転換であった。

 母と一緒に私はやっとわが家に帰った。
 
 将校や下士官たちの事務所であったわが家の母屋は、残務整理の隊員たちがしばらく滞在していた。

 終戦直後、学校は夏休みを延長していたがそのころだったと思う。

 例のいじめの将校は報復を恐れてか、いち早く逃げるように飛行機で飛び去っていった。 

 翼を左右にユラユラとさせ「さよなら」の合図をしながらーー。

 それをさも悔しそうに見上げていた兵隊さんの表情をなぜか妙に覚えている。

 特攻隊員も米軍のくる前にと、それぞれの郷里に向かい別れて帰ったらしい。
 
 「白菊」の大部分は高知市の少し向こうにある日章の本部飛行場に移されたようだ。

 まだ宮内飛行場に残っていた最後の数機は、ガソリンをかけて焼かれ、残骸の「白菊」が悄然としてそこにあった。

 禿鷹のようにその飛行機の部品を漁る人もいた。
 
 兵隊さんたちもだんだんといなくなった。
 
 戦い敗れて山河ありという。確かに山河は残った。

 ただ、荒廃した田と傷のついた山と取り散らかされた数軒の民家を残してーー。
 
 母の手記のなかに

 「ーー置き去りにされた飛行機の部品を盗む人も多かった。元の田圃に戻すのに、二ヵ年余りもかかったと思う。

  この軍隊の置き土産は、四戸の家には、ものすごい蚤と、天井もまっくろくなるほどの蝿の巣だったーー」

という一節がある。



 28年後の、昭和48年、母76歳の時の覚書である。

 その母が、強く兵隊さんを叱りつけたことがある。

 それは、敗戦の後、まだ残留していた隊員数名が本部に使っていたわが家の床柱に取り付けていた電話で、床の間に腰をかけ女性交換手をからかっていたときだ。


  「あんたらあ、そんなことじゃき戦争に負けた。もっとキチンとしなさい。礼儀をチャンとわきまえなさい!」

 と怒鳴りつけ、兵隊さんもタジタジの底だったのを鮮やかに覚えている。


 当時、隊員の殆どは「はたち」そこそこではなかったか。

 それから何十年か経て、その時の兵隊さん十数名が、母を訪ねてわが家に来られたことがある。

 「おふくろのようでした。叱られるのが嬉しかった」

 「そのとき自分は十八才でした。親のことを思い出しました」

 そう言って当時を懐かしんでいた。

  母も優しく笑って応じ、あのころ若者であったが、もう中年過ぎであろう当時の兵隊さんを快く迎え、昔日の話に花が咲いていたのも感慨深い。

  そんなことが何度かあった。白菊戦友会が開かれたとき立ち寄られたようである。


  ともあれ、四万十川の川沿いの西に開けた50ヘクタールほどの田圃は、まだ稲作ばかりの変化の少ない、宮内という小さな集落の、いっときにしろ、とても大きな出来事

 だった。    

 敗戦を目前に、20ヘクタールほどの田畑が強制買収され、勤労奉仕という無償の労働力を近隣町村から狩り出し、突如、急造された飛行場。

 それは、なぜ作られるのか全く地元に知らされないまま極秘・強制をもって強行され、そしてあっと言う間に幕を閉じた。

 この飛行場のいのちは、実働2カ月という余りにも僅かな期間であった。

 集落外の周りの人々には、通り過ぎる嵐の季節であったが、この地には、後遺症が田や山や数軒の家々に残った。

 それから50年余り経った今では、この地の人々にとっても、もはや「幻の飛行場」となっている。
 
 だが時は流れるとも「海軍宮内飛行場」とは要するに「特攻機を隠蔽待機させておく飛行場」だったという厳然たる事実は残る。




     ◆ ◆ ◆




 太平洋戦争は緒戦からいわば航空戦であった。

 昭和16年6月のミッドウエイ海戦後、日本は敗退を始め、昭和19年10月、比島沖海戦で日本の連合艦隊はほぼ壊滅。

 その翌日の25日に「神風特別攻撃隊敷島隊」が始めて米艦に体当たり攻撃を行った。

 その後、続々と特攻機が出撃することになる。 


 高知海軍航空隊は、昭和19年3月に開隊されたが、それは飛行術偵察専修講習生を入隊させ、機上作業練習機「白菊」を使って偵察搭乗員を急養成するためで

あった。

 しかし戦局きびしく、沖縄戦で、台湾と九州から最後の切り札として「菊水作戦」という特攻隊が昭和20年4月上旬から6月下旬にかけて出撃し、高知海軍航空隊の

「神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊」もそれに参加した。

 白菊には偵察・操縦の2名が乗り、月明かりや黎明、薄暮に、鹿児島の鹿屋基地から飛び立った。爆弾を胴体に吊るし、4時間もかけて沖縄に向かったという。

  「ーー死出の飛行だと思いつつも、死に対して少しも恐怖を抱かないのが不思議である。 落ち着いた気持ち、澄み切った心、ちょうど目前に懸かった満月のようにーー

              (中略) 

   《お母さん》と言い、《皆さんさよなら》と口の中で言った。それも数分のこと。後はぶんぶん飛ぶ愛機。雑念ひとつなし。沖縄へ、敵艦へーー」

                  (『高知空港史』第2章「太平洋戦争下の高知県の航空」に掲載されている藤井三郎氏の手記より)
 と、そんな気持ちを抱きながらーーー。



 昭和20年5月24日から6月25日までの出撃に、白菊26機、搭乗員52名が未帰還となっている。

 高知海軍航空隊の特攻隊は、もともと本土決戦に備えるものだったというが、それが、巡航速度も遅い練習機「白菊」を狩り出してまでの沖縄特攻に変更されたのだ。

 このような国内基地の手薄になった状況下で、しかも米軍の日本本土への進攻が間近く迫るなか、本土決戦には新しく特攻機を隠蔽し待機させておく必要があった。

 そこで急遽つくられたのが、公式には「窪川基地・高知第3飛行場」という名の宮内飛行場だったのである。
 
 未帰還となった最後の一機、第三白菊隊が出撃した六月二十五日、沖縄ついに失陥。

 この日、余りにも皮肉であるが大本営は、菊水作戦を打ち切っている。

 その後、残った「白菊」は鹿屋から高知に引き揚げ、そして4月ごろから作り始めていた宮内飛行場に、昭和20年7月、20数機がやってきたのである。

 焦土と化す覚悟のこの飛行場。

 それは上空から見ると、滑走路は細長い野原に鶏を飼う竹網の籠がいくつも並べてあるようにカモフラージュされていた。

 そこで特攻訓練飛行が行われていたわけである。

 そのころは馬が農作業の主役だったが、飛び交う飛行機の爆音に脅え作業に困ったという話も、昭和55年に窪川中学校が発行した『窪川こども風土記』に残っている。

 また、この特攻訓練中の飛行機が農家の建物の上に墜落した時の貴重な写真もあり、昭和61年発行の『くぼかわ今昔』に保存されている。

 さらに、山あいを低空飛行訓練中やむなく落としたと見られる不発弾。

 長さ1,4b、直径27aの赤錆びた爆弾(信管はないものの火薬はあったという)を平成5年に四万十川支流の河川敷で発見し、回収の支援をした記録もある。

 このように時を経ても、宮内飛行場の様々な跡は消えてはいない。



 飛行場に荒らされた宮内の田圃は、戦後処理のなかでやがて「開放田」として元の地主に払い下げられ、昭和23年と24年の2カ年ほどかけ、やっと、そこそこの復元を

完了した。

 しかし、一面にあった石ころを取り除き、境界のわからなくなった畦を設けるのも心身ともに疲れる仕事であった。

 それが、耕地整理という10アール区画で農道幅2b・用排水兼用水路だった当時の土地改良事業を宮内部落に導入するきっかけともなった。

 この戦争の銃後の災禍。

 だからこそ、揺るぎない平和な新しいムラづくりをと願う、傷ついた宮内ならではの気概とともに、乳と蜜の明日のデンマークを夢見ながら土地改良の事業が、窪川町のなか

でもいち早く進められた。

        
     ◆ ◆ ◆


 四国西南の四万十川のほとりに、春から夏の間、蜃気楼のようにできていた「海軍宮内飛行場」。

 それも今にして言えば、その兵隊さんたちも含め、まさに戦禍であった。

 敗戦間近い本土決戦に備えての、断末魔のごとき飛行場だった。そして銃後の戦場だったのである。
 
 今は石庭になっている私の家の庭も、その時には大きな塹壕となり、打ち上がった庭の石垣には二つの四角な穴が空けられ、そこから上陸した敵を機関銃で打つ備えが

してあった。裏山にも手榴弾を投げつけるための小さな広場が作られていた。今でこそ滑稽な話ではあるが、しかし、切ない話でもある。


 今も透明に流れる四万十川。

 悠久の、青き流れのこの川に、あの昔日はどのように映じたのだろうか。

 不透明で展望なき現今は、果たして、どのように映っているのであろうか。

                    

                平成10年2月21日


             (この一文は、福島県の「いわき地域学会」が、平成6年に出版した『かぼちゃと防空ずきん』に掲載された自稿にこのたび、

              高知県老人クラブ連合会発行の『平和の祈り』−戦中・戦後の記録−掲載の要請により、新たに手を加えたものである。
              本文中の参考資料としては、昭和59年発行の『高知県空港史』第2章「太平洋戦争下の高知県の航空」を使用させてもらった。)












      宮内の大日さま

                                                                                もくじに帰る



 この辺り一帯は山河清浄たる環境である。

 澄み渡る水と、陽光、そして肥沃な土に恵まれ、縄文・弥生の古代人が居住した遺跡も発掘されている。

 巷間伝わるところによると、仁井という翁が、この地の墾田を始めたところから窪川台地に「仁井田」の地名が生まれたとも言われているが、ここは、その近郷近在の開拓の

発祥地でもある。

 高き岡。そこに身を清めて渡る祓川が流れ、仁井田大明神が鎭座していた。この社の境内に、天長3年(西暦826年)、弘法大師空海が四国八十八ケ所の札所を

設けた際、その霊場のひとつに、真言宗藤居山五徳智院福円満寺を創建したという。

 伝承によれば、そのとき、それまで一殿であった社を、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づき、五鳥の姿になって現れる神に譬え、五つの社に分座した。

 東大宮(一ノ宮)に垂跡作りの不動明王、今大神宮(二ノ宮)に垂跡作り清浄観音、中之宮(三ノ宮)に本地阿弥陀、西今宮(四ノ宮)に垂跡作り薬師、聖宮(森之

宮)に将軍地蔵と、それぞれに弘法大師秘作の仏像を配して、神仏習合の五社大明神にしたとある。

 これが今の高岡神社の祖の姿である。


 
 草深い三日月状の村里、宮内。

 青き流れの四万十川が弧を描き東面を縁取る。



 往昔、この河のほとりに小高い弓状の丘がのび、川屋敷が点在していた。

 そこから西の麓にかけては中之宮神主屋敷、大宮神主屋敷、今大神々主屋敷などが連なっていた。

 この宮内は、仁井田五社大明神の神主たちが住まう「宮の御屋内」であり、ここから神に「仕え出る原」に通っていたのである。

 そのなかほどの川辺に、「元大安寺」という小字の土地がある。

 それは、四国霊場巡礼の遍路が渡ったという四万十川の浅瀬「へんどうぜ」を登ったところで、その一画に今も村人が「てらち」と呼ぶ場所がある。

 真言宗大安寺は、もともとそこに建てられていたのだろう。


 〃宮の内なるこの里〃はかって、神仏習合の聖地だったのである。

 この大安寺の仏堂には、本尊として運慶作の「大日如来」の仏像が納められ、お堂の奥にある室の中には、恵心僧都の作仏「薬師」が祀られていたと古書は記録してい

る。これが、今も、〃むらびと〃の呼ぶ《大日(ダイニチ)さま》の原像である。



 ところで、運慶といえば平安時代に奈良市にある真言宗円成寺の金剛界大日如来像を造っており、また東大寺南大門の国宝になっている仁王像をも造った鎌倉時代

を代表する仏師である。

 真言宗の開祖弘法大師空海と同時代の日本における天台宗の開創者最澄。

 恵心僧都と敬称された源信は、その最澄の門下で、平安中期『往生要集』三巻を完成して日本浄土教に一大金字塔を打ち立てた人物である。

 この二人は、ともに日本仏教史に燦然としてその名を残す偉大な存在であり、その方々の手になる仏像が、当時、この僻村の寺にあったということは特筆に値する。

 よほど高徳の僧が住していたものと、往時が偲ばれる。

 しかし、いかにも残念なことに木彫の仏像はその昔、村の衆が夜相撲のとき火事を起こし、寺院と共に焼失したと言われ現存していない。 

 
 ともあれ、古代から中世を貫く真言宗を中心とした大安寺の法灯がこの地に幾百の星霜を重ね連綿として続いてきたことは確かである。

 昔年の五社祭礼の時節には、この寺から、行者や役者を仕立て出したともある。
 


 長曽我部地検帳によれば、天正十六年(四百年余り前)に、宮内部落本村の領有面積は田畑屋敷合わせて三十一町七反余である。

 が、そのうち、大安寺は田畑五反余りと屋敷一反余りの寺領を持っていたことがわかる。



 やがて世は徳川となり、土佐に山内氏が入国してから、大安寺の寺領が取り上げられ廃寺寸前になった折、久礼浦常賢寺二世住僧・軆叟春道によって禅宗に改宗し

て常賢寺末寺となり再興された。



 それ以来、近世を通じて明治に至るまでは曹洞宗普門山大安寺として只管打坐による黙照禅の歩みがあったのである。

 その時代、『南路志』には、この寺の本尊を「観音」と記している。
 
 時は巡り、廃仏毀釈の法難に見舞われた明治四年、終に廃寺となる。



 しかし、その後も「大安寺・大日堂」の光明神・太陽神的性格の草の根の信仰は、この里の大地に深く生き続け、人々の暮らしに沁み入り、絶え間なく保たれてきた。

 宮内の田圃の東端にあった往古の大安寺は、清河四万十の川辺からいつしか西方の里山の麓へと移り変わって久しい。

 その時期は不明だが、山内氏の寺領没収後か、水害の時か、当寺ゆかりの墓碑からすれば新田開発の盛んになった元禄のころからかも知れない。 


 廃寺後は大日堂を残して寺小屋となり、明治九年にはそれを一教室と事務室兼住宅に改造した初の学校ができた。

 その学校はやがて明治十三年の小学校令により宮内小学校となるが、それが現在の丸山小学校の前身である。

 今はこの大日堂の跡地に、宮内集会所が建ち、その一隅が大日堂昔日の面影をかすかに残している。

 

 ここに「大日如来」「薬師如来」「観音菩薩」「弘法大師」の四つの関札が祀られている。

 お札には明治二十七年七月吉日と裏書されている。



 これは廃寺後二十数年を経て、先人が後代に長くその信仰を譲り渡そうとしたからに違いない。

 それは今に受け継がれ参拝の人も数多い。
 
 もうすでに恵心僧都源信が『往生要集』(西暦九八五年)を著してから一千年余の歳月が流れた。



 その間、この寺の真言宗の時代は鎌倉初期からとしても、室町を経て、安土桃山を過ぎるまでの約四百四十年。

 曹洞宗となった江戸時代から明治四年に至る約二百七十年。



 廃寺後は草の根の大日民間信仰百二十年余ーー。

 この長き来歴のなか幾代経てども水清き聖なる里に心月冴えて、わたしたちの先祖は時の流れと喜怒哀楽の山川を越えて来たのである。

 平成十年、宮内集会所裏山の急傾斜地崩壊防止のための工事に伴い、由緒ある大安寺ゆかりの住職らの数々の墓石と、これまで大日堂に持ち寄られた多くの地蔵

を移転した。その法要のひとつとして、「大日さまの由来」を刻む記念碑の建立と併せ、「大日堂仏殿」の改築を行なった。



 今なお礼拝される大日さまは変わることなく、近隣遠隔を問わず善男善女の心を静めそれぞれの祈願をそっと暖かく迎え入れているー。



 この節目の、ここに来て、来し方千年の祈りを、あすの千年の祈りに繋ぐよう切願する。



                   
千年の祈りや里に架かる虹 ( 宇久)



 
                                          平 成 10 年 初 夏                                          
                                                          宮内部落 第1常会総代 市 川 和 男                  





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