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 「閑」の窓から

        

英文学者で詩人の加島祥造氏に『老子と暮らす』という本がある。 そのセミ・タイトルは「知恵と自由のシンプ

ルライフ」だ。


氏はその中で、漢詩の「閑適詩」といわれるジャンルを紹介しながら、次のように書く。


―少し世間から離れ、静かになったときの、心のありさまを語る詩です。僕はそういう詩に心打たれるものを感じ

ました。(中略)それは僕だけではなく、現代の日本、いや洋の東西を問わず、近代化された以降の世界中の人間

が求めているはずだと思います。心の底で、もっとのんびりした生き方をしたい。「閑」という字は、門という字

に木を書きますね。門をカンヌキで閉ざすから、閑という。世間とあんまり行き来しない。ドアを閉ざしてのんび

りしたい、という気持ちが「閑」。―


少し長くなった引用だが私の心境もそこに映し出されているようである。ここ一〇年ほど地域の種々の会議に追

い回される日々を送った。その時々、自分なりに全力を注いだつもりだ。


 しかし、いま「閑」の窓から、聞こえるのは、やはり、ホール・ゴーギャンの

  「われわれはどこから来たのか」

  「われわれは何者なのか」

  「われわれはどこへゆくのか」

という、あの声だ。


何処からー

時遠く老子は、「名」もないものは、ものではない。「名」があって初めて「無」が「有」になり、そこに「もの」が

出現する。そして、すべては「名」のない領域(タオ)に戻る。と説いている。


何処へー

不透明な分断化の近現代という濃霧の中に身をおく私たちには見えない。殊に人類が核(兵器)を手にしてからは。

惑星科学者・松井考典氏はその著『宇宙誌』で広大な宇宙への思想を語る磁場の底流を、ゴーギャンのコトバのフ

レームで構成している。

宇宙にも人間の精神にとっても、これらの問いかけは、最も根源的なものと思われる。

いわば、私たちの精神的に生きる足場だ。

氏は

「四十六億年の地球史に比べれば、人類四百万年の歴史は一瞬のまばたきにも等しい。我々人類だけが、母な

る星・地球を傷つけていいものか!」

と同書で警告する。


異常気象の諸現象、地球環境の悪化に結果する変化。さらに、悲惨な争いの絶えない国際社会、家庭のブラウン管

にいや応なく現れる政治舞台の悲喜劇の数々。

止まることなく拡大する一方の犯罪の暴発と深刻な格差社会の症候群。

人口減少社会の出現による諸種の未踏な現象の襲来などが様ざまに想定される。

二十一世紀のはじめとはいえ、今まさに末世感が漂い、危機感はいっそう重くのしかかってくる。

私たちはこれまで一体何をしてきたといえるのか。もっと違った道があったのではないのか。


生き方・回路の選択は本当に正しかったのか。

改革というが、一体誰のための改革なのか。その実像が見えない。さらに道州制を含む平成第二の自治体再編成が

ひたひたと迫っている。それは果たして誰のための自治体になるものなのか。そこに修辞的な流行語はコピーされ

てはいても、深く現実に根ざして今後の実像を創造するような覇気とロマンの熱情は見かけられない。


競争が差別をもたらせ、闘争を発生させる。

一元主義にこれはつきものだ。そこに活性化を求める方向に、そもそも和と環は成立しない。

そんな時代に、ロマンも熱情も抱くことはできないのかもしれない。

だが、

「人類総体としての”業“のようなものがあるとして、我々は既に取り返しようもなく滅びつつあるのだとすれば

、なおのこと、怜悧な情熱によって問われなければならないだろう。現象としての我々にとって、永劫不滅の”存

在“とは何か、思惟はいよいよ深まるはずである。」

これは、東洋哲学の泰斗・井筒敏彦氏を評した池田晶子子氏の「情熱の形而上学」における結びの言葉である。

これから共に求めたいのは、新たなフェーズだ。


宇宙時代の時空スケールをもつ俯瞰的な視座。

多元的・双面的な見方、相対的な振幅スパンの長い考え方。

とらわれずこだわりのない感性の柔らかさ・優しさ。言い換えれば曼荼羅的な発想の回路。

その行方にこそ、大きなライフを蔵する水惑星の存続を見ることができるのではないだろうか。

    

                         2006年12月中旬草