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賢 治 の 時 空
ーーこ の 共 振 す る 次 元ーー
市 川 和 男
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日本・岩手に降り立った一人の天才。
この世の実在を宇宙的感覚で全身において受け取った彼は、日本では希有の総合的な能力をもっていた。
昭和八年、私が生まれたその年に、賢治は三十八歳で没している。それから十八年後、新潮社で発行された昭和二十六年版の『宮沢賢治集』という赤い巻表紙の本が、私の最初に触れた賢治の書であった。
そこには、先ず冒頭に「農民芸術概論」があった。突如、蘇るものがあった。
例えば
農民芸術の綜合
ーおお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を 一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないかー
結 論
ーわれらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱であるー
「ここでは時間というよりは時空綜合の四次元芸術への希求と創造とを述べている」と、いち早く賢治の卓抜な天才性を見抜いた草野心平は書いた。
この思想的波長は、私のなかへ無意識のうちにどこまでも浸透していったようである。そしてこの心象風景に、私はいつしか郷里の農村を重ねていた。
イーハトヴの世界と四万十川中流域のほとりにある田園風景が、けぶるように重なり合っていた。
遠い日の内的出来事の思い出である。が、後で私の計画課題となった農村空間への思いも、顧みればこの辺りに源流があるのかも知れない。
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農村は芸術空間である。
確かにこれほどの大きくて深い芸術空間は他にない。
詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
魂の羽ばたく精神の舞踏と、微妙に変化する空気、時間によって織り成される自然の音や色や形や香。その呼吸がぴったりあった大きな舞台。まさに、天 地 人 の四次元的に調和した芸術空間である。
賢治は農村に四次元空間を見たが、決して世にいう農民詩人でも農村詩人でもなかったと思う。自然の向こう側に幾重にも重なったもうひとつの、深い自然を感じていたのだ。そんな、いわば自然深化の過程を生きた詩人であった。だから、科学も彼にとっては詩であり、詩は彼にとって宇宙・銀河系空間への扉であった。そんな詩と科学が綜合されたひとつの巨きな宗教、まさにその宗教が、 彼の宇宙感覚の創造したあの童話である。
こんな詩人が、それまでに、或いはその後に、日本にいただろうか。
今はすでに亡き友人S氏が、一杯やりながら私に言ったことがある。
「賢治はブレイクだ!」
その友はクリスチャンだったが、今頃は、賢治と会っていそうな気がする。 「人間の永遠なる肉体は、想像力である。・・・・(永遠界では、すべてはヴィジョンである。)」というブレイクの言葉が、そこでは交わされているのではないだうか。
「農民芸術概論」の昼と「銀河鉄道の夜」。この二つを自らの内に宿した魂の空間が、賢治の心象風景として私には映っている。
極めて直感的にかつ大胆に言えば、賢治の宗教とは、ベーメやブレイクたちの見たもの、いわゆる宇宙的神秘主義と呼応するものではなかったか。
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それぞれの人間はそれぞれの宇宙である、と思う。それはまるで、ワームホールでつながったベビー宇宙を連想させる。
極小に極大がある。極大も畢竟、極小であった。それは共に、宇宙の巨きな意志の一相貌なのである。それは、どちらでもなく、どちらでもあるという、高次元時空の実在が変化する形である。
森羅万象、それぞれの形には、それぞれの精神が息づき宿っているように、人間には宇宙の意志が宿っている。だからこそ、時空を超えて宇宙と生命は一体なのである。ガイア(生命体としての地球・地球生命圏)もまた成立し得る。
その高次元界において生も死も一体となる。生の世界を支配するのはつまりは時間である。時間によってこの世はすべて動いている。死はその時間を超える次元である。この世に与えられた時間の宿命的な深い深いベールが剥がされ、遮るものなく精神が聳え立ち、魂の自在な時空が拡がる。
それぞれの私は、なぜ、それぞれ「いま、ここ」なのか。
「私が、すべての時間の無限性に吸収された自分の生命の短さを考えるとき、また私の知らない、そして私を知らない空間の無限の巨大さによって吸い込まれた、自分の触れたり見たりできる空間の小部分を考えるとき、私は、ここにいてあすこにいないのか、・・・今いてあのときいなかったのか、を怖れいぶかしく思う。」とブレーズ・パスカルはいう。
ここから死への準備としての戒律が生まれ、それぞれの宇宙という生命への慈しみの眼差しが生まれる。
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「銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱」と賢治はいう。それは、おそらく宇宙創成の意志の顕現である。
始めに宇宙の意志ありき、なのだ。われわれ人間には見えない高次元の熱と力である。
始めに終わりありき、と直感する。
その透明で完璧性のある「始源」へ立ち戻るような、精神力の振幅が私たちには最も大切なことである。
始めに終わりありき、そこには宇宙の風が吹き募っていた。
希薄な空気を通過して、透明な宇宙の意志が燦々と降り注ぐ古代。
天空に至る精神の羽ばたいた、汚れなき風土。太古の遠く巨きな響き。
東西未分化の古代には、総合的直感力がみなぎる人間の精神的生命力と宇宙の彼方から吹く風がなびきあっていた。
限りなく遠きものに近づき、見えないものを観る眼が育ち、限りなく秘められた声をそっときく耳を養うのが、感覚を昇華する精神化の過程である。
始源への遡及、ニーチェは古代ギリシャへの回帰だったが、賢治に私は縄文的精神空間を感ずる。
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私はそこからの引き算が始まった、と思う。それを歴史は、進化といった。分析至上的な還元主義の蔓延である。
理想が低落して欲望が突出してしまった現代。生産が需要をつくる倒錯の時代。臆面もない欲望開発は自然破壊を招き、とりわけ人間の内なる自然を崩壊させている。
自然がいつしか神を失った。同時に自然のなかの多様な生物種が減少し、豊潤な生命系が次第に枯渇している。それが近代化であった。神なき自然は単なる緑の空間でしかない。そんな自然が私たちを取り巻いて久しい。
天然なき自然から管理された自然への移り変わりのなかで、自然崇拝・山岳信仰は見る影もなくなっていき、いま自然保護と言う。自然保護、それは近代の傲慢である。人間が自然の一員であり、むしろ自然の従者である身元を忘れたその思い上がりも甚だしい。しかし神亡き自然故、緑の空間としての平面的な、観光的売買の対象になり果てている。そして企業的農業には、自然と共生するアミニズムは無縁であり、むしろ邪魔物である。だが、危機は現前となった。
「(心が)その地位を急速に後退させたことが二千年以上にもわたっているのは実に危険なことです。」(シュレーヂンガー)という言葉が、ふと、私の脳裡を走る。
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「農民と言わず地人と称し、芸術と言わず創造といいたい」と賢治は、昭和元年二月二十七日、岩手国民高等学校での《農民(地人)芸術概論》の講義の際に語り、また「農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である」と述べている。そして賢治は《羅須地人協会》を創る。
その地人協会の《地人芸術概論》の講義を受けた伊藤忠一のメモには「◎真の詩とはーー人間の魂の記録である。 ◎詩人とはーー常に来るべき文化の先陣に立つものにして、個人によりて理想異なるものである。 ◎新時代の詩の特徴−ー健全でなければいけない。(希望、勃興の気持、不正に対する反抗、社会的にして生産的であること。) ◎真の詩−−生産の原動力であり、これに拠りて勢力をもりかえし労働を完うすることの出来るものでなければならない。」(伊藤忠一「労農詩論三講」「イーハトーヴォ」四号)と記されている。こうして賢治は、地人協会の活動のなか、東北の貧しい農民生活の厳しすぎる現実と、賢治自身の宇宙に羽ばたこうとする天にも抜けるような感性との狭間にあって、ついに倒れた。
「根子では私は農業わずかばかりの技術や芸術で村が明るくなるかどうかやって見て半途で自分が倒れた訳ですがこんどは場所と方法を全く変えてもう一度やってみたいと思って居ます。」という手紙の下書きがあり、賢治の死の十日前「あなたがいろいろ想い出しては書かれたやうなことは最早二度と出来そうにもありませんがそれに代わることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ます。」と記した、辛くて言いようのない返信の手紙が残っている。
挫折といい、破綻というはやさしい。しかし賢治没後六〇年、彼ほど、魂に沁み入るように、多くの人々に読み続けられるものがあったか。その心象風景のみずみずしさを、鮮やかにいつまでも保っているのは一体何か。彼の作品が次第にいま一層の輝きを増してゆくのは何故か。
それは、賢治の魂の振動が時空を超えて、人々の魂と共振するからである。
芸術のための芸術は少年期に現れ青年期に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり成人以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する
賢治の肉体は、老年期に至ることはなかった。その意味で挫折ではあったとしても彼の精神の内部は、この人生のサイクルをすでに体験しているのである。 そして、確かなのは、彼に合う衣は無かったということである。
社会運動家でも、また農民自体でもなかった。科学者としての業績がある訳でもない。当時の詩の常識を超えた詩人らしくない詩人であった。単なる童話作家でもない。その何れでもあり得た賢治の姿があるが、しかし、そのどの衣も単品では、すっぽりと賢治を包み込むことはできない。彼の内部にはその何れからもはみでるような、巨大なすざましさがあった。
「デクノボー」と「修羅」の間を振り子のように振幅する精神空間、すざましく下降してゆく魂の高みがあった・・・。
だが、私にとって賢治とは、やはり、親しい間柄としての預言者なのである。 賢治を思うとき、今やまるで二次元化した自然、経済合理主義化した農業を前にして、これらの恐るべき危機に連動する何か大切なものの終焉の兆しを感ずる。 どこかで、われわれの歩むべき入り口が大きく違った気がする。
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こころが天に至るためには夜の神秘が必要であった。
「天上どころじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまでも行ける筈でさぁ」そう同乗の鳥捕りが言った。
その銀河鉄道の切符を得るには、岩手の一隅に、あの広大な内部を宿したイーハトヴの世界が必要であった。
四万十川のほとりには、天に昇る龍が要る。弥生の里に精神が実るためには、水への祈りが要る。神宿る自然への畏怖と敬虔な祈りがなくてはならない。
三次元的な説明、主知的証明などを拒否する高次元体験。光と影、三次元的な昼と四次元的な夜が交錯する世界に柔順になりたい。
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とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きっとおまえをおもいだす
おまえはその巨きな木星のうえに居るのか
鋼青壮麗のそらのむかふ
(ああけれどもそのどこかも知れない空間で
光の紐やオーケストラがほんとうにあるのか
・・・・此処あ日あ永あくて
一日のうちの何時だかもわからないで・・・・
ただひときれのおまえからの通信が
いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)
およそ認識は四次元的な情感にまで深められなくてはならない。ひとは理性に止まらず、悟性的でなくてはならない。そしてなにより死とは宇宙である。宇宙そのものに還ることである。
「どこかも知れない空間」でほんとうにあるのか、という「光の紐やオーケストラ」。
光の紐はある。
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すべての力とすべての素粒子は、一種類の閉じたひも、それも一兆分の一の一兆分の一の一億分の一センチのひもの振動でつくられる。
このひもは右まわりと左まわりの二つの振動状態をとる。
右まわりの振動は一〇次元で振動する。
左まわりの振動は二六次元で振動する。
この振動から六種類のクォークと六種類のレプトン、八種類のウィークボゾン、一種類の光子がつくられる。
この「超ひも理論」は二十一世紀の理論であるという。
アインシュタインの相対性理論、ホーキングの量子宇宙論、大統一理論の最有力候補として注目されている超ひも理論。物理学は思考の発明であるとすれば、いわば、人間の宇宙認識の世界である。この純粋科学の分野における画期的な流れは、しかしまだ長い物語の始まりの部分にすぎないといわれている。
超ひも理論によると、宇宙は一〇次元で誕生した。
このうち四つの次元が時間と空間をつくり、残りの六つの次元は素粒子より小さいサイズに縮んだ。
素粒子には、「重力」「電磁気力」「強い力」「弱い力」の四種類の力がはたらいている。
この四つの力を統一する理論が大統一理論である。
この理論の確立に貢献したアメリカ、プリンストン大学のグロス教授は次のように語っている。
「超ひも理論を最も単純に定式化すると、物体は一〇次元の平らで大きな時空(時間と空間は密接に関連した統一体)の中にあるということなのです。こうした一〇次元の世界は、われわれの世界とは全然似ていません。そこで超ひも理論をわれわれの世界にあてはまるようにすると、四次元以外に余分な次元はミクロな円に巻かれてしまうのです。身近な例にたとえると、視力の悪い人には世界は四次元、つまり時間一次元、空間三次元に見えます。しかしよく見ると、円に巻かれたミクロな六つの次元がみえてくるのです。世界が一〇次元であるとか四次元であるとかいうのは、われわれが世界をどのように観測するかによっています。われわれの悪い視力と性能のよくない顕微鏡で世界をみるならば、世界は確かに四次元にみえるでしょう。しかし、世界を非常に注意深くみれば、超ひも理論が正しいとすると、世界が一〇次元にみえる可能性があります。」
「超ひも理論の解釈では、世界を非常にミクロに観測すれば、時間や空間という概念さえ意味がなくなってしまうと考えられます。(中略)むしろ時間と空間が融合した《時空》という概念が必要になります。(中略)われわれが理解できている問題にくらべると、これからとくべき問題のほうがずっと多いのです。たとえば時空とは何か。時空は何にとってかわられるべきかなどです。超ひも理論では粒子より時空それ自体がずっと本質的だと考えています。そしてわれわれの親しんでいる時間や空間は、より本質的な何かの近似にすぎないと考えています。」(以上『ニュートン別冊』より)
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「超ひも」の世界では、時間も空間も意味を持たない。それは何かの近似である、と言う。そして、時間と空間が融合した統一体としての時空。さらに、より本質的な何かーー。
振動する「超ひも」が、振動する宇宙である。
まさに極小の世界が、宇宙という極大を創造しているのだ。
始めの前と終わりの後が一体であり、極小と極大が結ばれている円のなかで膨張と収縮を繰り返す宇宙の振動系は、円環状時空であるともいわれている。
おそらく「生」もまた同じであろう。高次元時空では生死一体の円環がある。 一即一切という華厳の世界、良寛や賢治の法華経の次元と合い通ずるものがある。そんな気がしてならない。さらには、やはり仏教、なかでも密教とキリスト教神秘主義の接点を思わざるを得ない。
四次感覚は静芸術に流動を容る
神秘主義は絶えず新たに起こるであろう
超ひもの振動が、魂の振動でないとだれがいえよう。
素粒子がいかに組み立てられ、何を形づくるのか。
そのプログラムをつくるのはだれか。
宇宙の意志に超ひもが振動するのである。
「時空」にとってかわるべき、より本質的な「何か」とは、宇宙の意志ではないか。宇宙の意志としての「霊」ではないか。それに、超ひもが振動して、宇宙を振動させているのではないのか。
賢治の見た幻想四次元の世界は、いま、超ひも理論の宇宙観と呼応しているかように、私には見える。
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カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに言っているのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている」
「そうだ」
どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は水素よりももっとすきとほっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたしたとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。
そして、「銀河鉄道の夜」に現れた《黒い帽子をかぶった大人》はいう。
「−変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって天の川だっ て汽車だって歴史だってたださう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょ にすこしこころもちをしづかにしてごらん。いいか」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれを降ろしました。
するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考えといふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなってぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともるとあらゆる廣い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えるともうがらんとしたただもうそれっきりになってしまうのを見ました。
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この賢治の内的な視覚はどこから来たのか。私はこれほど鮮やかな円環の像と唯識の形象といっていいものに触れたことはない。
賢治の透明な四次元世界には「三世実有」があるという。つまり、過去も、未来も、現在の奥深くに実在するという見方である。ミンコフスキー空間もそうである。それは、過去も、未来も、四次元空間に内包されているのである。 それは何故か。
時間と空間を超えて存在するものが、実は、「現在」の内部深くにあるからである。「現在」の基層、高次元世界の源泉にあるのである。
歴史は単なる時の流れではない。「現在」の形の変化である。悠久の流れとは、また無常なる「現在」の流れなのだ。時の流れを感ずるのは「現在」が変化してゆく、或は変化せしめている、何か或実在への直感と感慨があるからだ。
波動方程式を提示し、重力場と電磁場の「場」の統一理論を構築したシュレーヂィンガーの「遠くまで道を見る目はむしろ直観的なもの」といわれるが、彼のそこで見たものは『精神と物質』とが交錯する領域であった。
そのシュレーヂィンガーは「物理的な理論は現在の状況において、時間を超えた精神の不滅を強く示唆している、と主張している様に私には思えるのであります。」と書いている。
そして「神は霊なのです。」と断言する。
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時空を超える精神とは霊である。
「光あれ」の創世の光、それはどこから発せられたか。
宇宙の意志としての霊である神から、高次元的な光がこの世に発せられているのかも知れない。
朝の光を拝み、夕日に感謝の祈りを捧げたくなるのは、世の古今東西を問わない。天空の光りに姿を見せる神を感ずるからである。
霊の光−−光量子を産む超ひもの振動−−精神と物質の深い基層にある交錯領域。生死一体の実相。
中沢新一氏は「タントリストの手記」のなかで書く。
ーーさっきまで、私たちは峠にさしかかる坂の入口にある小さなネパール民家の軒先をかりて、三十分ほど、雨やどりをしていた。初夏のこの季節には、ほとんど毎日のようにやってくる気持ちのよい通り雨だ。雨のとおりすぎて言ったあと、空気はますます澄みわたり、上を見あげれば紺青の空が、さらにその深みを増してくるのだった。そこに虹がたった。
いままで見たこともないくらいあざやかな色彩でできた虹。よく見ると虹の光が動いているのがわかる。虹のなかから、光の細かい水しぶきのようなものが、たえまなく立ち昇り、また虹のなかに吸い込まれていくーー
(それを見ながらラマ僧K・Sは「私」に言う)
「ー虹はスクリーンに映し出されるような、平面的な光の像なんかじゃあない。それは、まあ何と言うか、太い筒のようなかたちをしていて、しかもたえまなく動いている、いや流れているといったほうがいいかな。そう、ちょうど地面をゆく蛇の身体みたいにな。しかも、その虹の身体のいたるところから、水しぶきのような光の彩流が噴き出し、また虹のなかに吸い込まれていくという動きが、くりかえされているんだ。その流動する光の筒としての虹こそ、じつは、科学が想像しているような七色の光の帯としての虹よりも、ずっと虹の本性の姿にちかいものだ。−(中略)−わしらの生きているこの世界の本質は、そこをおおいつくしている『叡智』という力にほかならないが、それはもともと透明でまばゆい光なのだ。その光が発生するとき、それはまず、透明な色彩の渦巻き螺旋をした虹としてあらわれる。光の雲のかたまりといってもいいかも知れない−」
(そしてこのラマ僧の言葉に、「私」は、次のルドルフ・シュタイナーの虹の理論との深 い共通性を見る)
「ーイマジネーション認識を獲得した人が見ると、霊たちは現れ出ては、消え入ります。実際、虹は霊たちの素晴らしいワルツです。ー(中略)ー虹は水状の要素から成り立っています。この水状の要素の中に霊的存在が生きていますー」
こうして、
「虹の体験が私たちの心につくりだす体験は、意識と物質の発生の現場に、まっすぐつな がっている。虹は、私たちの魂の奥深い場所に棲みついている光の蛇なのだ。−−(中略) −このレベルでは、物質と想像力が共振現象をおこす。ランボーの言う《物質的神秘主義》 は、虹の棲まう、意識と物質の共振するこの地層で実現される」(中沢新一『虹の理論』) のである。
「精神が物質をつくった」とエンデはいう。
そのとき、意識と存在はもともとひとつのものであった。不可分一体であり、「心身一如」なのである。
やがて、精神の衰弱が始まり、平面的な二元論が支配的となって、その裏返しにしかすぎない一元論が登場した。そこで、意識と存在、精神と物質はお互いに消去し合うようになる。 しかし、意識の中の出来事も実在する現象であり、実在の現象もまた意識の反映である。賢治はいう。
これらは決して偽でも架空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析はあっても、たしかにこの通りその時心象の中に現れたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げていても、難解でも必ず心の深部に於いて万人共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。
霊に感応する超ひもの振動は、そのまま振動する宇宙ではないか。
宇宙の振動は、振動する超ひもではないか。
宇宙のなかに超ひもが振動し、その超ひもの振動のなかにたつ宇宙の振動。 精神・意識・想像力と物質の共振する「光の紐」。
その虹の光が射す魂の深い海の岸辺に立つと、そこにはふしぎにすっきりとした或る秘められた実在の影、そして「交錯」と「共振」の音色が観えてくるようである。
虹の光と銀河の流れ。
銀河のなかでカンパネルラとジョバンニは、白いきものの人の姿をした神を目撃する。
現代の宇宙飛行士たちは、大気圏外の宇宙空間で、やはり、神を身近に感じたという。
ジョバンニがこらえ兼ねて言いました。
「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ」
「だけどあたしたち、もうここで降りなけあいけないのよ、ここ天上へ行くとこなんだか ら」女の子がさびしさうに言いました。
「天上へなんか行かなくたっていいぢゃないか。ぼくたちここで天上よりもいいとこをこ さえなけあいけないって僕の先生が言ったよ」
「だってお母さんも言ってらっしゃるし、それに神さまも仰っしゃるんだわ」
「あなたの神さま、うその神さまよ」
「そうぢゃないよ」
「あなたの神さまってどんな神さまですか」
青年は笑いながら言いました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の 神さまです」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です」
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」
「だからそうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの 前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります。 」青年はつつましく両手を組 みました。
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