時  空  庵   U 通  信  



    「U」は、宇 宙(時 空)、そして、邑(ゆう)。

     「U」は、四万十川のほとりにある邑(むら)からの発信。

     いわば宇宙をみつめる邑評論のようなものです。 

                   平 成 8 年 9 月  高知県高岡郡窪川町宮内   市 川 和 男 ( 宇 久 )

                                      四万十川の日に (平成8年7月25日)


   

   シ ・ マ ム タ 郷  序 章

   

           銀 河 系 を 自 ら の 中 に



              源 流 追 想  

     

        世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない
  

        自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

          この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか

         新たな時代は世界が一つの意識になり生物となる方向にある

         正しく強く生きるとは

         銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである 

          われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である    

                            (宮沢賢治「農民芸術概論綱要」序 より)


          その貫通するものは一つなり しかも風雅におけるもの造化ゾウカに従いて四時シイジを友とす (芭蕉)

          正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである (宮沢賢治)

 

     

               この 「造化」 「銀河」 が ここにいう 天然 である



  


   天なる四万十の源流



シ ・ マ ム タ 遡 行



     四万十川の源流をたずねて      市 川 和 男








  源 流 探 訪 の 一 日


 十年一昔というが、もう一昔をも後にした。

 窪川原発問題で、この牧歌的な地域に鋭く深いひび割れが生じていたころのことである。

対立感情がはげしくあらわになり、集落の会合やPTAの会議もままならず、親子の間ですら亀裂が走っていたような
時期であった。

 「ひとつ四万十川という共通項で結ばれないだろうか」

 当時、町立図書館に勤めていた私は、この話に直ぐさま乗った。

   四万十川はこの地域の共通資産、しかも歴史的な共同空間なのだから、ともかく試験的にでもやってみようでは
ないかということで始まったのが「窪川四万十川の会」であった。

   これは、そんな時節の或る日の話だ。



        * * * * *



   その日は梅雨明けの快晴、台地の朝は透き通ったように瑞々しい。

   夏を仰ぎ二台の車がひとつ方向に走る。

   この春結成された「窪川四万十川の会」の面々十二名。農民、商店主、教員、公務員、農協職員など職種
を超えた多彩で癖の強い面構えのメンバーである。
   深緑の山々、それを縫うようにひたすら車は、四万十川の川沿いにつかず離れず溯る。
   四万十川幹線流路総延長一九六〓、流域面積二二七〇平方〓。

  いつしか私の目は、しきりに川の砂を探していた。

   砂が殆ど見当たらない。砂に変わって葦(ツルヨシ)ばかりが、水量の減った川に繁茂している。幼い日に戯れた感触のよい砂原はも
うどこにもない。

  かつて飲めるようなきらめく水が流れ、水際のつるつるとした小石には鮎が

  近づき、小石の手前には砂が溜まり広がっていた。そして川岸には「すずだけ」が帯状に延びていた。それらの調和を保つ連結が、特有 
の河川景観だった。

  が、今見るこの川には、もはや、その砂も竹もない。いかにも殺風景なコンクリートの壁が目を突き刺す。西瓜のような匂いの香魚アユは
もういない。

  
川に迫る山には、どこまでいっても植林がされていて、雑木林は先ずない。

  雑木林には、喬木や潅木などが多様な彩りを見せ、種々の木の実に野鳥が飛び交い、樹下は豊かな植生に満ちていた。

  木々は、深く或いは浅く、隈無く根を巡らせて山肌をしっとりと守り、水を思う存分含み、見事な保水・浄化能力を発揮していた。

  野放図な人工林化、同時進行した過疎化による線香林が目立つ。

   川のいのちは山である。だが、山が土塊に、川が溝に変容しているのだ。

   「三尺下がれば清水となる」というのは、もはや完全に死語である。

   車窓から思いは続くーー。

   ところで、そんな今、なぜ清流・四万十川なのか。

   そんな呼び名は、現実では憧憬に過ぎない。



   宇宙に浮かぶ青い宝石、太陽系のなかの生命の星・地球。

   またそのなかの青い島・日本。

   この国の風土が培った「水木土」の文化。

   清き流れと日本晴れ、山水の美観。

   日本人の感覚的基底には、これらがある。

   古来、「祓い清め」の営みは「ハレ」の行事であった。

   自然のなかで育った日本の伝統的な山岳信仰とそれらは密接に結び付いていた。
   この流域の年中行事の中にも、それは単なる農耕の付帯的行事に止まらず、自然を自然あらしめるものへの信仰、山水に神々を
見る古代神話の世界を内在していた。

   にもかかわらずこの国の近代化は、とりわけその清流と神話を放棄した。

  とすれば、清流に飢える人々の憧憬として清流という名の四万十川があるのではないか。
  世界に秘境がなくなり、それはもはや幻想ですらあるように。

  私はふと、昭和二十年代のはじめ、この川の中流域に建設が予定されていた大正ダムのことを思い出した。
  多目的ダムという名目で戦後の電力供給のため、日本各地に多くのダムが雨後の筍のように作られたが、これもそのひとつの目論見で 
あった。
  私は若い頃、その計画の反対運動に加わったものだが、川辺の民は、開発の響きよりは、馴染める「大川」(四万十川)の自然とその
せせらぎを守ることを選んだ。そして今原発であるーーー。



   ここに来て立ち止まり、伝統を進歩に、歴史を未来にと発想しなくならない。



   天然は高次元時空である。

   天然が一歩人間の側に近づいた自然は、総合的に生命体として保護されねば

  ならない。保護と保全は峻別されなくてはならない。保全の理念の背景には、

  機械論的な機能主義がある。

   私たちは止まることを知らない「自然の人工化」(疑似自然・天然改造空間)

  を安易に容認する精神の怠惰に甘んじてはなるまい。

 我々の先祖は森林を皆伐はしなかった。つねに山に思いを寄せ、必要な地に

  は雑木林を残して植林をしたものである。

   その当時まで人々は効率の呪縛から解き放たれていて、金銭ずくめではなく

  節度をもって自然に接するコツをわきまえていた。コツは自然の摂理を感得し

  それに従う術(すべ)であり、そこに自然の豊かさが即、生活の豊かさに結ば

  れる低エントロピー地域社会が形成されていたのである。



 車の遡行と共に昂揚する気分はさらに思いを馳せさせるーーー。

   日本は中世との断絶の上に近代を築いたのではないのか。それは畢竟、或る

  特定のニーズが作り上げた砂上の楼閣ではなかったか。そこでは自然をも経済

  の道具に化した。資源は勢い収奪の対象となる。力を貸したのは巨大技術であ

  る。淵源は人間をも機械と見るデカルトに端を発した近代合理主義の自然征服

  思想にあった。

   自然を人間の他者にしてしまった近代の巨大技術は、人工の楽園としての都

  市と、自然と共生する農村とを乖離させ、次第に都市の勝利と農村の敗北とい

  う図式を定着させた。

   だが今世紀末の現在、栄冠を手にしたように見える都市も恐竜のごとき自己

  崩壊の危機にある。また農山村も深刻な悲劇的変質の渦中にある。

   そもそも自然生態系のなかのリサイクルによる生命生産であるべき第一次産

  業すら、商業主義的工業化の潮流に抗しがたく、その母体としての共同空間で

  ある自然を乱している。

 さて、逆転の構図は、と思う。

   おそらく、この来歴を逆上り再出発することではないのかと。




  効率と利便至上の論理を機軸とする無機的な産業循環論ではなく、外部経済

  を組み込んだ、総合的な「経世済民」の根元に立ち返り、その源流からの、い




  わば「経国土済世」の創見が必要なのではないかとーー。





   目に映ずる四万十川の周りから、言葉にすれば長いがそんな思いが断章のご

  とくやってくる。

  外はあくまで翠濃く、空気は肌にやわらかである。



   車は次第に源流に近づき、川沿いの道を登る。

   やがて、険しい山に囲まれた小さな村里に着いた。

 四万十川の最上流はそこを流れる極めて平凡な小川である。

 せせらぐ小川から、風きらめく谷川に移る。

   私たちは車から降り、右手にあるその谷川に沿って歩き始めた。

   間もなく谷間にちょっとした広場があった。

   「都森林公園」と書いてある。「住めば都」から名付けたという。

 そこに黙然とある記念碑が、太平洋戦争直後の食料難時代この山奥に入植し

  た十数名の人達の、開拓の厳しさとロマンと覇気を物語っている。

   またここには、東津野山の生んだ名僧・義堂と高僧・絶海の銅像もあった。

   私はそこに心や歴史を大切にする、昨今流行のコマーシャリズムには毒され

  ていない素朴な人情の香りが漂うのを何か有り難く感じた。



  谷川の向こう岸に稲葉洞がある。

   冷たい風の吹き出している洞窟に、同行のK先生と吸い込まれるように入っ

  て行った。かすかに灯る懐中電灯を頼りに、少し怖々と背を屈めながら辺りに

  気を配る。すると突然、奥のほうから水の流れる音が聞こえた。

   そろそろと歩を進める。

   地中の川である。

   薄い光りを通して見える水の流れ。澄み切ったこれ以上の清き流れがあるだ

  ろうか。

   静寂が水音で増幅する。

 天然自然そのものの神秘的雰囲気に出会った。





 バタバタという蝙蝠の羽音に驚きながら洞窟を出た。

   盛夏に冷涼。

   麓の山里といい、この公園といい、清浄な安堵感があった。

 これはひとつの帰郷感なのだろうか。


 東山魁夷が描いたドイツの「緑濃き湖」。その岸辺に牛飼いの小屋があり、

   そこの壁の飾り皿に書いていたという、この言葉が実感された。



源流を抱く不入山(いらずやま)を一路頂上に向かう。 土佐の藩政時代一般人の

  立ち入りを禁ずる「御留山」(おとめやま)から、この名が付けられたと聞く。

   土の流されたでこぼこ道。途中、見事な大杉に見とれている間に、おいてけ

  ぼりになった私たち五名に案内人はいない。歩き遅れた者にかぎって

   「あそこが源流かな」と声で追いつく。

   奥深く曲がりくねった山道を不慣れな足取りで登りに登る。

行き先知らずの緊張感が高まる。

   山頂に近づくと青空も近い清々しさである。と、一歩先んじて

   「ここが源流としよう」

   断定的で大きな声。登山の好きな天文学に詳しいU先生だ。

   一同同感。ついに来た!。時は正午。

   陽光は燦々と薄く澄んだ空気を通して肌に快い。

   源流は、何の劇的なものもなく極めて平凡にそこにある。

   それだけ一層爽やかな存在である。

   同じ流域の窪川に育った私どもには見慣れた景観のようでありながら、やは

  りそれを超える非日常性をそこに感じた。

   緑風が吹き上がる。

   忽然と鳥形山の奇形が展望された。

   脚下に棚引く白い雲。

   源流と目した谷の水を飲む。












   まろやかな味。

   「うまきかな源流の水!」。ひとしおの感慨が身心に染み渡った。



神々の安らう山の水涼し



   「不入」という山の名も源流にふさわしい。源流点の標高は一三三六b。

   今は点在するに過ぎない自然木から昔日を思い描き森厳とした気分にひたる。



 だが、眼前には所々崩れた小さな谷に湧き出た水が、辛うじて谷川を維持し

  ているに過ぎない。

   源流とは一体何なのか。ここに来てそんな問が噴き出た。

   つまりは、天と地の近しいことではないのか。

   ここに立つ私どもは、天と地の接点に居る。

 「而今の山水は古仏の道現成なり」という道元禅師の「山水」とは、そのま

  ま無礙なる「自己」であった。

   なれば、源流とは自己の「みなもと」、畢竟、私たちの故郷なのではないの

  か。

 流れの頂きは、脳裡をたっぷり刺激する。



     私たちは草木である



     (そのことを私たちが認めようと認めないとそんなことにかかわらず)

天空に花を咲かせ、実を結び得るためには

     根をもって土中から生い立たねばならない草木である。

               (ヨハン・ペーター・へーベル)

   ハイデッカーはいう。

「この詩人がいおうとしたのは次のことであります。ーー


    人間は故郷の土地の深みから天空の内にそそり立つことができなければな

   らないということであります。

 天空とはここでは、高き天のさえぎるものなき覇気、つまり精神の開け放

   たれた境域を意味しております。

私どもは一層の思いを潜め、そして問います。




    すなわち、ヨハン・ペーター・ヘーベルが語った事柄は、今日如何なる状

   態にあるであろうかと。

 かって見られたごとき、大地と天空との間に人間が安らかに住むという、

   かの住まいは今でもなおあるでありましょうか。

    省察する精神は、今でも国土を統べているでありましょうか。

    根本の力を蔵している故郷、つまりその土地に人間が生え抜きとして土着

   しつつある故郷、そんな故郷は今なおあるでありましょうか。」



  彼が同郷の詩人『ヘーベル・家の友』で一九五五年に語ったこの言葉はいま

  この地において、まさに研ぎ澄まされた光を発する。

   そして彼の哲学詩『野の道』は問いかける。



      ーー

     単純なものは、さらにますます単純になった

     いつも同じものは疑義を感じしめ、また解決する

     野の道の呼び声は、今こそありありと聞かれる

     魂が語るのか

     世界が語るのか

     神が語るのか

   ーー

   野の道の呼び声は長き来歴の中に於いて

     故郷の家に憩い住まわしめる



   このとき私にとって源流探訪とは、存在の「源郷」への遍歴であった。

   存在の源泉の近みに憩い住まう静かな里をこそ故郷というべきであろう。

   大地と天空との間に人間が安らかに住むという住まいは、いわゆる「墳墓の

  地」であり、《ただ生きるだけの単なる生》ではなく、《死を能(よ)くし得

  る者》としての人間が《地上に逗留する住み家》でなくてはならない。

そのような住み家であるべき故郷は、遠きにありて思うものとなって、今や

  一層遥かに霞む。が、霞を剥奪してようやく見える《単純なるもの》としての

  根源に、私どもは果たして今立ち戻ることが出来るのであろうか。






      −◇−◇ −◇−



   そぞろなる存在の源郷への想念の海からもう引き返さなくてはならない。

山を降り始める。




      山道が二つに別れるもうひとつの峰に向かうと、山腹に千本杉の木立が見え

     た。その辺りから流れてくる谷川のほとりで、私たちはみんなと合流した。

      もう大分経った昼下がり。

  谷水で汗ばんだ顔を洗い、涼やかな木陰で遅い昼食をすませる。

自然を満喫する私たちは自然のなかの一点である。

      樹下の会議を開く。

      窪川四万十川の会・会則をきめ、モチーフなど話し合う。

  そこには

「我々が四万十川を育んだのではない。四万十川が我々を育んだのである。

      悠久の流れ四万十川に我々の生活は、その基底のところで溶け込んでいる。

      四万十川の自然と我々の先祖は共に生き、共存してきた。

      そこからこの流域の生活文化が生まれ育ったのである。

      現代文明は、自然と人間の共生・共存の関係に深刻な変化を与えているが、

     我々もその中に生きていることに違いはない。

      伝統的な流域生活文化圏の問題は、歴史的に古くて新しきテーマである。

      流域住民である我々に内なるものとして深く存在する四万十川、この川の文

     化を見つめたい。それがこの会の生まれることになった発想の原点である」

     と書き記した。

      こうして不入山会議は終わった。



帰途、明治二十三年、四万十川の大災害をもたらした山津波の現場「オオツ

     エ」に立ち寄った。

案内役の会員に従って、その部落の古老の話を縁側や庭石に腰掛けて聞く。

「そのときは、向こうの山から水がふきでた」という。

      何日も降りつついていた雨。山に染み込み、たまりに溜まった水が一挙に噴

出した。山腹が突然崩壊する。地滑りが起こり、その土は狭い谷間を突如埋め、

濁流を塞く。

       「対岸のこの家の辺りまで水が来た」 という。 ここは里山を大分打ち上がっ

     た家である。

塞き止められた大水。次第に水嵩が上がる。上がり詰め、土砂の堰が切れる。

       途方もない洪水は、津波となってかけ下る。田畑、家、人馬もろとも、濁流

に飲み込まれた。未曽有の災害になった大洪水は流域のそれまでの地理と歴史

をも変えるほどであった。

それは、流域の縄文晩期の歴史を完全に変えた南九州鬼界カルデラの大噴火

による降灰の、壮絶な巨大自然災害を想起させた。

      流域の近代史上ではこれまでにない記録的な大惨事を巻き起こした明治二十

     三年の大洪水の模様が私たちをも飲み込んだようであった。

自然には、暴力的な力を顕わにする時と和らいだ表情の時とがある。

            

      「随所にイデーを見ることのできる目」をもっていたという和辻哲郎氏は、

      「梅雨と台風とを特徴とする我々の国土は、古代の先祖が直感的に《豊葦原

     の瑞穂の国》と呼んだように特に濕潤の風土である。−−−豊富な湿気が人間

     に食物を恵むとともに、同時に暴風や洪水として人間を脅かすというモンスー

     ン的風土の、従って人間の受容的、忍従的な存在の仕方の二重性格の上に、こ

     こにはさらに熱帯的、寒帯的、季節的、突発的というごとき特殊な二重性格が

     加わってくる」と、日本の風土的性格づけを行った。

      そして彼は、人間存在の風土的規定のため、三つの類型を設定する。

       一、モンスーン(東洋的風土)

       二、砂漠(イスラム的風土)

       三、牧場(ヨーロッパ的風土) 

   雑草のないヨーロッパに驚いた彼は自然の柔順さに思いを巡らせる。

   「自然が柔順であることはかくして自然が合理的であることに連絡してくる。

人は自然の中から容易に規則を見いだすことができる。そうしてこの規則に従

  って自然に臨むと、自然はますます柔順になる。このことがさらに自然の中に

  法則を探求せしめるのである。かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧

  場的風土の産物であることも容易に理解される」という。



   遠くドイツ観念論哲学を完結したヘーゲルは、自然を、高原、平野、海岸の

  三つに類型化して、歴史と文化は高原に始まり、平野で普遍性を獲得し、海岸

  で発展すると考えた。

ヨーロッパを舞台にした考えではあるが、しかし、これを四万十川の、上流

  (高原)、中流(平野)、下流(海岸)にスライドしてもおもしろい。

   また土佐には古来から、山間部の谷合から天を望む垂直的思考と太平洋を望

  む開放的な水平的思考があったという。

 これらの風土的思考類型も流域文化を見るひとつの視座であろう。

   いずれにしても自然に和した日本文化は、複雑微妙な地形や気象、そして湿

  潤な温帯地域の豊かな植生と変化に富む四季、それらに囲まれた生き様から生

  い立っている。その極めて源郷的な姿を四万十川の流域は保持しているのだ。

 季語的な感性、ハレの伝統的営みも、そこから自ずと了解される。

   農耕の民、川辺の守人の日常的挨拶の言葉のなかにも、自然への共通感覚が

  表明されてきた。それらは今なお、日本の源郷としての四万十川流域に生きる




     私どもの習わしの内にあるーーー。 



      夏の日も、この谷あいの里では早い。

   一行は東津野を後にした。

大きい自然。そこで得たものの余韻が、時と共に発酵する。

   車はひた走る。

   それにつれて周りもだんだん世俗に戻る。

   水辺に人情が映る。



   十九世紀にヨーロッパで神々が死に、二十世紀はそれに変わって資本が君臨

  し、やがて工業化が世界を席巻した。今世紀末、産業主義は終焉している。

   では、二十一世紀に何が人類を運命づけるであろうか。

   ー《省察する精神は、今なお国土を統べているのか》ー。

   その声がまだ脳裡に木霊している。



   風土の古い呼び名は「水土」だという。

   とすれば、人間の風土的規定とは、水土の文化の類型化である。

   水土の文化による「生」の空間規定である。

悠久の流れとその流域に土中深く根差した身体的生活。そして遮るものなき

  天空高く聳えたつ精神。それらが互いに溶け合い、佇む地域の「相」。

   この「相」の伝承と創造が次代への、ここに在る者の責務ではないのか。

   自然循環系に即した古代の東洋思想、中世の自然と共生した生き様は、今、

  近未来的な癒しの哲学に装いを新たにするーー。

   美しい景観は定住の条件である。

   定住とは畢竟そこに逗留することである。

   留まることは安らうことである。

   安らいは物事の深みに到達することである。

   多重なるものの保育、自然においても精神においても、その重層的多様性が

  保障されなくてはならない。

   天然の価値の再発見と復活を底流とする自然景観の復元、低エントロピー社

  会構造、生命生産としての第一次産業の復位、神々の住まう山林や生命の故郷

  である海洋の保全、新たなる自然哲学の構築−−。

   それらを貫く「循環」と「時熟」の摂理ーーー。

   そのとき



   「野の道」は存在の道である。

   「生の文化」花咲く道である。

   私は再び、遠い日に読み、去ることのないハイデッカーの『ヘルダーリンの

  詩の解明』の次の一節を確かめる。




      

  己が固有のものに留まることは源泉へ行くことである

        源泉とは大地の息子らの一切の住むことが発生する根源である

        留まることは、いわば源泉の近みへ行くことである

        この近みに住む者が滞留の本質を実現するのである



    白雲を嶺に従え夏没日



   この日一日、源流踏査の体験を共有した我々は、一様に或る感動に浸されて

  いた。

 車中には快い疲れが漂う。

   ふと窓外に小川の水車が映じた。

   村人たちの「時の豊富な」暮らし。

   自然との、いと、さやかな佇まいである。

   夕暮れて窪川盆地の街に帰る。

   慰労の席が設けられ、生ビールのジョッキを傾ける。

   話は源流論である。

   次第にまわる酒のいきおいで

   「山頂に立ち天に向かって口を開け、降る水を飲めばそれが源流の水だ!」

   僧であり中学校教師でもあるK先生は言い切った。(その彼も先年、生死の

  通過儀礼を越えて行ったがーー)

   それを受けて若い農業者M君がいう。




      「源流はない、それは天だ」



       そこにいま朝はバッカスのように立ち昇る

       そこでは、年と聖なる時間の日とは、大いなる無限のうちに育ち

       他の場所よりはより一層大胆な序列と交替をもっている

       しかも嵐の鳥は、時間を見分け

       山のあわい、大空の高きところで飛びめぐって日を告げる

       今や谷底深く村もまた目覚め、怖れげなく

       高きものに心開いて、嶺々を仰ぎ見る

       始源の水が稲妻のごとく墜ちかかれば、生育を予感しつつ

       大地はゆらぎ、谺はあたりに響きわたる

       かくて限りなく大いなるこの仕事場は

       贈物をおくりつつ、昼に夜に腕をいそします

   (ヘルダーリン『帰郷』手塚富雄訳より)



   歓談の後、ほろ酔い気分で満天の星を身近に夜道を歩く。

   源流の水を持ち帰った用意周到なY先生宅に立ち寄り乾杯する。

   「よきかな、四万十チュウハイ」

   四万十川遡行の盛夏の一日はこうして終わった。

   そして省みて思う。川という存在を人は何故訪ねるのか。

おそらく、私どもの内なるものの始めに山河があるからだと。






          シ・マムタの川

  ふかみどりの山は空に浮かぶ

        辿れる流れのみなもとは日常を装いまた超える

        涼風に沁み入る内なる実在



        源泉の水に立ちのぼる虹 天と地の架橋

        四万十の時空に映える存在の故郷

         

        天空に聳え大地に根差す

        われらは透明な時空にゆらぐ草木 



        自然あらしめるものにわれらは問う

        初めに山河ありきという

   根源の住処は今何処かと



   * * * * *



それから、もう十二年という歳月が流れた。

   私たち「窪川四万十川の会」は、その翌年、アメゴ釣り同好の「渓流会」と

  一緒に「四万十川大学講座」を開いた。

   約一年間にわたり、考古学者、地質学者、文学者、生物学者、流域内研究者

  などを招聘し、町内の五十名ほどの者が定期的に集い多面的な角度で学習した

  ことである。

   また昭和六十三年には全流域を対象に住民主体の「四万十川の水と資源を考

  える会」がつくられ、第四回水郷水都全国会議を中村市で開催して「環境学習

  河川」などの宣言を行った。

これまでを通じ、この流域の為すべきことは、何よりも「発見と復活」の思

  想を地域的に体現することだと思う。

流域のなかから四万十川ルネサンスが起こらねばならない。

   この川は、古代、四国西南の地のシルクロードであったと私は思っている。

悠久なる四万十川の個性は、里山を延々曲流しているところにある。

   就中、中上流域の盆地状台地である窪川は、出土品から見て弥生時代、農耕

  祭礼の里として栄えた「古代の都邑」であったと思われる。

   清き流れを育む里山環境。私は、その自然景観全体を伝統的文化遺産として

  保護し育成する『四万十川田園学習郷』への道をことある度に提唱して来た。

  しかし、自然を文化とする天然自然復興の道程は未だ遠い。



時は移る。

   技術変革の波に乗って走りに走った二十世紀も暮れ果てに来た。と同時に、

  大切な何かを失った喪失感が世を不気味に浸している。

   当時の臆面もない開発のブームはバブルと共に流れ去った。同時に、浅薄な

  ふるさと宣伝コマーシャシズムの視覚公害もようやく鎮まりを見せてはいるが

  やはり、その延長線上で保全管理思想による自然改造の余波は続いている。



   効率の論理の歯車を一層加速させ、自然を削り取り、地盤の脆弱をも省みず

  利便性を求めて過剰集積をもたらせた都市志向の国土改造。株式会社神戸の悲



  劇は、戦後五十年の国土計画の負の部分を象徴的に物語った。

   公的人災が天変地異の天災を増大させる危険は全国的にある筈だ。

   一方で農山村も、依然として濃霧のなかの岐路に立ち竦んだままである。

   最近、これまでの反省に立ち日本列島を「庭園の島」とする国土計画の構想

  が打ち出された。が、自然改造という「人工の島」に化してはなるまい。

   この島の山紫水明は天然の美観である。作為を寄せ付けない天然にのみ宿る

  力の形象としてそれはある。そこに時代を超えて人々の心に深く浸透する明澄

  な普遍の美がある。解放された精神の居場所として、それは静謐に佇む。

   《時はいつ美となるか》即ち、天然は「時熟」の美である。



  今や至近距離となった二十一世紀を前に、人々はいつの間にか忘れていた畏

  敬と畏怖の念をもって、何か大いなるものに気づき始めた感もある。



   古典的なものと近代的なものとを二律背反の関係にしてはならない。

   古典は常に新しいものである。その古典的なものの保存・保護が保障される

  限りにおいて、近代的な果実を享受する方向が大切なのである。

   ひとむかし前の源流探訪を省みて、今また私は、天然の山水画のような『四

  万十川自然庭園帯』を、厳密に「発見と復活」の見地から構想し、国土計画上

  の環境モデルとして位置付けることをあらためて望みたい。

   そのためにも、とりわけ里山と河岸の自然復元が如何に図られるかが問題である。

   透明な川を囲む里山環境の総合的価値を、ここで再発見・再確認し、復位・復権させる

   合意形成に、この川の全国的な公共空間としての未来がかかっていると思う。





    



        源流の一滴に立つ虹はるか

  

     遥かなる銀河と虹を己の内に秘める四万十川の守り人への賛歌。

      彼らの索ねる幽玄な山水の道への想念の旅。

      ここに綴ったものは、天なるシ(甚だ)・マムタ(美しい)源流の内面的時空にアプローチする、ひとつの四万十川美学の試論的随想とでもいうべきか。

              平成11年10月30日

      (昭和59年、同人誌『大地』に掲載した拙文を、今また新たな四万十川ブームへの警告を発信するため、

      平成8年の「四万十川の日」(7月27日)を期して全面的に書き改めたが、この一文は、さらにその後、友人の要請もありそれに若干の改訂を加えたものである)。

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